静かなる経済戦
夜会から数日。帝都の平穏な空気の裏側で、目に見えない「病」が広がり始めていた。
リリアーヌが管理を任されている直轄地において、小麦の価格が異常な高騰を見せ、同時に軍部へ納入されるべき鉄材の供給が滞り始めたのだ。
「……幼稚ですね。実に、反吐が出るほどに」
リリアーヌの執務室。フランは机の上に広げられた膨大な物価指数の表を、冷徹な目で見つめていた。その背後では、リリアーヌが不安げに窓の外を見ている。
「フラン、民衆の間で不満が高まっているわ。このままだと『皇女の管理能力不足』を理由に、貴族院から私の権限を剥奪する動議が出される。……カスティル侯爵たちの仕業ね」
「ええ。市場に流れる小麦を買い占め、倉庫に死蔵させることで人為的な飢餓を作り出している。同時に、鉄材の流通ルートを物理的に封鎖し、軍の兵站を人質に取った。……彼らは、私が『数字』に強いなら、その数字の前提となる『現物』を奪えばいいと考えたようです」
フランは眼鏡のブリッジを押し上げ、不敵な、薄氷のような笑みを浮かべた。
「ですが、彼らは忘れている。……私が、かつて相手を兵糧攻めで追い詰めた軍師であることを」
フランの反撃は、一通の「行政命令」から始まった。
彼はリリアーヌの署名を用いて、帝都近郊の全倉庫に対し、一斉の「防疫検査」を命じた。表向きはネズミによる疫病の防止だが、真の狙いは隠匿された小麦の正確な所在を確認することにある。
「軍師殿、こんな紙切れで我らが動くと思うか! 倉庫は私有地だ!」
港湾地区の巨大な倉庫前。カスティル侯爵配下の商人たちが、フランの前に立ちはだかった。だが、フランの背後にはリリアーヌの護衛兵だけでなく、抜き身の剣を下げた筋骨隆々の男たちが控えていた。
「……ラグナス将軍。お待たせしました。お貸しした『知略』の対価、ここで支払っていただきます」
フランが合図を送ると、帝都近郊を預かる「黒狗」の将、ラグナスが重い足音を立てて前へ出た。彼は、夜会で自分の名前を勝手に使ったフランに激怒して怒鳴り込んできたが、フランが提示した「軍の兵站を腐らせている貴族のリスト」と「新しい補給路の構築案」を見て、その毒気に惚れ込んだ一人だった。
「おい、商人ども。俺たちの飯を横流しして、さらに鉄材を隠して剣も打てなくさせているのは貴様らか?」
「ひ、ひいっ! ラ、ラグナス将軍! なぜここに……!」
「……理屈を話しましょう」
フランは騒乱の中、冷徹に告げた。
「現在、帝都の法律において、軍資材の隠匿は『反逆罪』に相当します。将軍、この倉庫の扉を破壊してください。……抵抗する者は、帝国への叛徒としてその場で処断して構いません」
ラグナスの重装歩兵が大斧を振るい、倉庫の重い扉が紙細工のように砕け散った。
中から現れたのは、山のような小麦と、隠されていた鉄材の束。フランはその光景を確認すると、同行させていた若手の文官たちに素早く指示を飛ばした。
「これより、この物資をすべて『公的徴用』として没収する。適正価格での買い取り価格は、先月の最安値に設定。差額分は、不当利得として国庫へ還流させる。……文句があるなら、陛下の前で私の計算式と戦ってもらいたい」
その日のうちに、市場には大量の小麦が放出され、物価は劇的に安定した。
一方で、物資を隠匿していた貴族たちは、ラグナス将軍の軍門を叩く「黒い犬」たちによって次々と連行されていった。法的に正当な手順を踏みつつ、軍部という最強の暴力を味方につけたフランの立ち回りは、もはや一介の捕虜のそれではない。
「……フラン。貴公、ラグナス将軍まで手懐けるなんて、一体どんな計算をしたの?」
夕暮れの執務室で、リリアーヌが驚きと感心の混じった声を上げた。
フランは窓の外、再び活気を取り戻した帝都の街並みを見つめながら、静かに答えた。
「手懐けたのではありません。……『利害』が一致しただけです。彼は戦いたい、私は貴女の平穏を守りたい。……そのために、帝国の旧い膿を出すというプロセスが必要だった」
フランは、懐に忍ばせたリリアーヌからの手紙に指を触れた。
知略で経済を操り、暴力で法を執行する。
リリアーヌを頂点に据えるための「帝国の再構築」は、今、確実にその歩みを進めていた。
「……さて。次は、この汚職貴族たちが抱えていた『徴税権』を、殿下の手元に集約させましょう。……計算によれば、これで帝国の国力は、前年比で十二パーセント向上します」
リリアーヌの隣で、フラン・メルクニアは名実ともに、帝国の喉元を握る「黒い軍師」としての地位を確立しつつあった。




