狂犬と毒蛇
帝都近郊、重装歩兵大隊「黒狗」の駐屯地。
そこは優雅な帝都の喧騒とは無縁の、鉄と汗と、そして「死の匂い」が染み付いた場所だった。
その中央天幕に、フラン・メルクニアはたった一人で立っていた。周囲を囲むのは、南方の最前線から外され、行き場のない闘争本能を燻らせている「黒狗」の荒くれ者たちだ。彼らの視線は、場違いなほど端正な軍服を着たフランを、今すぐにでも引き裂かんばかりに鋭い。
「……面白い。夜会で俺の名を勝手に使い、バルド公を脅した度胸だけは認めてやろう」
天幕の奥から、地鳴りのような声が響いた。
「黒狗」の将、ラグナス。熊のような巨体に、無数の戦傷が刻まれた顔面。彼は愛用の巨大な戦斧を研ぐ手を止めず、血走った瞳でフランを射抜いた。
「だがな、軍師様よ。俺の名は、文字を弄ぶだけの捕虜が安売りしていいほど軽くはねえんだ」
ラグナスが斧を放り投げると、それはフランのつま先から数ミリの地点に突き刺さった。風圧がフランの髪を揺らす。だが、フランの眼鏡の奥の瞳は、瞬き一つしなかった。
「……ラグナス将軍。威圧による交渉優位の確保は、相手が『死』を恐れる場合にのみ有効です」
フランは無機質な声で、足元の戦斧を一瞥もせずに告げた。
「今の貴公の部隊の稼働率は四十二パーセント。南方の鋼鉄卿に補給が優先され、貴公らの武器の質は落ち、糧秣の質も家畜以下だ。……帝国軍部において、貴公らは既に『過去の遺物』として計算から除外されつつある。違いますか?」
「……何だと?」
ラグナスの動きが止まる。天幕の温度が、一気に氷点下まで下がった。
「理屈を話しましょう。……私が欲しいのは、貴公の暴力です。そして貴公が欲しているのは、戦功を立てるための『場所』と、部下たちが腹一杯に食える『まともな飯』だ」
「口の減らねえガキだ。俺たちを使いっ走りにするつもりか?」
「いえ。貴公らを『再定義』するのです」
フランは懐から、一通の図面を取り出した。それは、ラグナスたちが駐屯する周辺地域の物流経路と、近隣貴族たちの「隠し倉庫」の推定位置が記された地図だった。
「現在、帝都の経済を牛耳る門閥貴族たちは、意図的に軍の兵站を滞らせ、自らの利益に変換している。……いわば、貴公らの命を削って金貨を鋳造しているのです。彼らを叩き潰すことは、帝国の法においても、軍の規律においても正当な『戦い』です」
フランは地図をラグナスの前に広げ、その一点を指差した。
「ここにあるカスティル侯爵の隠し倉庫には、貴公らの大隊が半年間、最高級の肉と酒を口にできるだけの軍資金が眠っている。……私が法的な『大義』と、軍を動かすための『名分』を用意する。貴公はただ、その牙を剥き、本来あるべき場所に物資を戻せばいい」
ラグナスは、フランの指し示す地図と、その冷徹な横顔を交互に見た。
そこには、自分たちを蔑む貴族の傲慢も、捕虜特有の卑屈さもない。ただ、世界を最も効率的に動かそうとする、純粋な「意志」だけがあった。
「……一つ聞かせろ、軍師様。なぜ鋼鉄卿ではなく、俺を選んだ? ああいう英雄様の方が、お前のような知恵者にはお似合いだろう」
「……鋼鉄卿は、既に完成された武力です。彼は計算に組み込みやすいが、私の『個人的な目的』のために動かすにはコストが高すぎる」
フランは、窓の外――リリアーヌがいるであろう帝都の中心を見つめた。
「私は、殿下の隣に立つために、帝国を塗り替える必要がある。……そのためには、システムから弾き出され、飢えた『黒い犬』の方が、よほど頼りになる変数(駒)なのです」
静寂が流れた。ラグナスは低く笑い出し、やがてそれは天幕を揺らす爆笑へと変わった。
「ハハハ! 気に入った! 貴様、俺たちを『駒』だと言い切りやがったな!」
ラグナスは立ち上がり、巨大な手でフランの細い肩をがっしりと掴んだ。骨が軋むような握力。だが、フランはその痛みすらも「信頼のコスト」として受け入れた。
「いいだろう。俺の牙、殿下と貴様に預けてやる。その代わり、俺たちを飼い慣らしたことを後悔するなよ。……俺たちは、一度噛み付いたら骨まで砕くまで離さねえからな」
「……望むところです。私の計算に、噛み残しはありません」
こうして、帝国の最も冷徹な知略と、最も飢えた暴力が結びついた。
それは、帝都の腐敗した貴族たちが、最も恐れるべき「怪物」が誕生した瞬間でもあった。




