毒蛇の晩餐
バルド公国での鮮烈な「戦果」は、瞬く間に帝都の社交界を駆け巡った。
無血で一国の武装を解除させた「皇女の軍師」の名は、ある者にとっては恐怖の象徴となり、またある者にとっては、リリアーヌという巨大な利権を奪い去った忌々しい「泥棒」の代名詞となった。
「……殿下。やはり、この正装は無駄が多すぎます。機動性は皆無、装飾過多による重量増。私が夜会に出席するより、書庫で帝国の徴税効率を五パーセント改善する案を練る方が、よほど陛下の利益になる」
鏡の前で、フランは窮屈そうに襟元を指でなぞった。漆黒の生地に銀の刺繍が施された軍礼装は、彼の細身の体躯を鋭利な刃物のように引き立てている。
「ダメよ、フラン。今日はお父様が、貴公を正式に私の『婚約者候補』として貴族たちに品定めさせる場なんだから。知略だけじゃなく、その顔の良さも帝国のために使いなさい」
背後から現れたリリアーヌは、真紅のドレスを翻し、フランの腰に腕を回した。鏡の中で並ぶ二人は、まるで帝国の光と影を体現したかのような調和を見せている。フランは溜息をつき、彼女の手の上にそっと自分の手を重ねた。
夜会の会場である白金宮は、傲慢な香水の香りと、本心を守るための「社交辞令」という名のノイズで満ちていた。
二人が入場した瞬間、喧騒は潮が引くように静まり、次の瞬間には鋭い視線の矢がフランに突き刺さった。
「おやおや、これが噂の『敗将軍師』殿ですか。バルド公を脅したとか。戦場を知らぬ若造が、数字の魔法で老人を弄ぶとは……感心しませんな」
最初に接触してきたのは、保守派貴族の重鎮、カスティル侯爵だった。彼は自らの息子をリリアーヌの婿に押し込もうと画策していた男であり、その背後には、彼に同調する数人の門閥貴族が控えている。
「魔法ではありません。……侯爵。単なる算数です」
フランはシャンパングラスを片手に、無機質な視線を侯爵に向けた。
「例えば、侯爵。貴方の領地で昨年行われた治水工事。資材の横流しによって堤防の強度が計算値の七割に留まっている。今年の雨量予測からすれば、あと三ヶ月で貴方の領地の三割が水没し、帝都への穀物供給が途絶える。……その損失を、貴方の首一つで贖えるとお考えですか?」
「な……っ!? なぜそれを……!」
「私の目は、嘘をつく唇ではなく、嘘をつけない『帳簿』を見るためにあります。……殿下の隣を汚すノイズになるなら、先に貴方の家計を破綻させますが、よろしいか?」
侯爵は顔を真っ青にして絶句し、這々の体で人混みへと消えた。フランの周囲に、物理的な「空白」ができる。知略という名の暴力。彼に触れれば、家門の隠し事すべてが暴かれるという恐怖が、貴族たちを沈黙させた。
だが、試練はそれだけではなかった。
「リリアーヌ王女、お久しぶりです。相変わらずお美しい」
現れたのは、隣国の第三王子、カイルだった。帝国との同盟強化を名目に、リリアーヌへの求婚を公言している華やかな青年だ。彼はフランを無視し、リリアーヌの手を執って優雅に接吻した。
「そちらの『事務官』殿が、北で素晴らしい事務作業をこなしたと聞きました。ですが、帝国の太陽たる貴女の隣には、やはり剣と血筋を誇る王族こそが相応しい。……いかがです、一曲?」
カイル王子の向けた視線は、フランを「背景の家具」程度にしか認識していなかった。
リリアーヌは困ったようにフランを見た。彼女は、フランが「嫉妬」などという不合理な感情を抱くはずがない、と信じていた。
しかし。
フランの中で、カチリ、と何かのスイッチが入った。
「……王子。そのステップ、止めていただけますか」
フランが二人の間に割り込んだ。その動作は、洗練された騎士よりもなお静かで、威圧的だった。
「私の計算によれば、貴国の財政は現在、南方の貿易摩擦により崩壊の危機にある。貴方がここにいるのは愛のためではなく、帝国の資金援助を引き出すための『政略』の一環だ。……その不純な動機で、私の『所有物』に触れるのは、極めて不快だ」
「所有物だと……? 貴様、一介の軍師が皇女殿下を――」
「言葉を正しましょう。……『私のすべてを捧げた、唯一の主』です」
フランはリリアーヌの腰をぐいと引き寄せ、公衆の面前で、彼女の耳元に唇を寄せた。
「殿下……いえ、リリアーヌ。今の私の心拍数は、平常時の二倍を超えています。これは医学的に見て、貴女を奪われようとしていることへの、極めて激しい拒絶反応だ。……この不合理な衝動を抑える計算式を、私はまだ持っていない」
リリアーヌは目を見開いた。いつも冷静な軍師が、初めて見せた独占欲。その熱量に、彼女の心臓もまた大きく跳ねる。
「……ふふ、合格よフラン。計算外の答えこそ、私が貴公に求めていたものだわ」
リリアーヌは王子の手を跳ね除け、フランの首に腕を回した。
会場全体が、騒然となる。帝国の冷徹な知恵袋が、一人の女のためにその牙を剥き出しにした。それは、いかなる宣戦布告よりも苛烈な「愛の証明」だった。
夜会の隅で、その様子を苦々しく、しかし興味深げに見つめる目が一つ。
皇帝は、手元の杯を飲み干し、隣の近衛兵に低く告げた。
「……あの男、知略に狂っていると思っていたが。……どうやら、娘に狂わされたようだな。面白い。そのまま使い潰してみせろ」
フラン・メルクニアの帝都での初夜会は、数多の家門を沈黙させ、一国の王子の面子を潰し、そして皇女の心に消えない烙印を刻むことで幕を閉じた。
彼の手帳の新しいページには、数式ではなく、殴り書きのような言葉が一つだけ記された。
――『リリアーヌの隣。譲歩の余地なし』




