冷徹なる再起動
帝都から北へ馬を走らせること五日。
空気はその密度を増し、肌を刺すような乾いた冷気が立ち込めるバルド公国へと至る。
南方のアイアン・ピークでは、今この瞬間も地鳴りのような咆哮が響いているはずだった。メルクニアの一族――フランの兄であるカルムやクリスたちが、捕虜となった弟を救い出すため、そして奪われた要衝を取り戻すため、帝国軍の猛将・鋼鉄卿が守る鉄壁に、文字通り命を削って激突している。
帝国全土の耳目は、その壮絶な「兄弟愛」と「武勇」の行方に釘付けになっていた。
だが、四男フラン・メルクニアは、その喧騒から最も遠い場所にいた。
かつてアイアン・ピークの断崖で「自分という資源」を使い潰し、一族の種を残すための生贄になろうとした男は、今、帝国の華麗な正装に身を包み、リリアーヌ皇女の代理人としてバルド公国の古びた城館に立っていた。
かつての彼は、ただ死に場所を求めていた。
だが、今の彼の手帳には、リリアーヌが持たせた小さな押し花が挟まれている。
「貴公を死なせない。それが私の計算よ」
そう言って笑った少女の体温が、彼の凍てついた数式を、最も残酷で最も強固な「防壁」へと書き換えていた。
バルド公国の謁見の間には、北方の厳しい冬を毛皮と酒で凌いできた、野卑で狡猾な貴族たちが集っていた。彼らの視線は、広間の中央を歩むフランに対して、隠そうともしない蔑みに満ちている。
「見ろ。あれがアイアン・ピークで膝を突いた、メルクニアの敗将か」
「兄たちは南で死に物狂いで戦っているというのに、当の本人は皇女の寝所に逃げ込んで命を拾ったか。私生児というのは、生き恥を晒すことにも慣れているらしい」
心ない嘲笑が、石造りの重厚な壁に反響する。
かつてのフランであれば、こうした侮蔑も「客観的事実だ」と無機質に受け流していただろう。あるいは、己を殺し、一族への義理を果たす理由の一つとして数えていたかもしれない。
だが、今のフランの耳に届くその言葉は、彼自身の心を傷つけることはなかった。代わりに、ある冷徹な確信を彼に与えた。
(……ノイズだ。この者たちは、殿下が望む平和な治世において、真っ先に排除されるべき不要な誤差に過ぎない)
フランは公国の最高権力者、バルド公の前に立ち、優雅に、しかし事務的な一礼をした。
「バルド公。挨拶は不要です。時間は有限な資源であり、不合理な浪費は私の信条に反する。……早速、理屈を話しましょう」
フランの声は、低く、冷たく、広間にいた者たちの笑い声を鋭利なナイフのように切り裂いた。
フランは、持参した厚い一束の報告書を、バルド公の前のテーブルに叩きつけた。それは、公国が帝国に提出した「北方蛮族対策費」の決算書と、隠蔽されていた兵站の輸送記録である。
「貴国がこの三ヶ月、蛮族の襲撃が激化したという名目で帝国から引き出した追加予算。そして、防衛のために発注された大量の鉄材と石材。……これらを、実際に補強されたという砦の状況、及び配置された兵員の装備の摩耗率、さらには周辺村落の穀物流通量と照合しました」
フランは、動揺を見せ始めたバルド公の瞳を、獲物を狙う蛇のような鋭さで見据えた。
「公。貴公は蛮族と戦ってなどいない。むしろ、蛮族の長に帝国の特産品を贈り、不可侵の密約を交わしている。そして、蛮族対策として浮かせた予算と資材を使い、貴公の居城であるこの『白鴉城』の地下に、大規模な籠城用の兵糧庫と、帝国の大型投石器すら弾き返す重層補強外壁を構築している」
「…………っ」
「南で私の兄弟たちが暴れている隙に、帝国からの独立を宣言し、北方の王として君臨しようという魂胆ですね。……非常に、救いようのない計算違いだ」
「な、何を……! 妄想も大概にしろ、捕虜風情が! 数字だけで何が分かる!」
バルド公が叫ぶ。だが、フランの追求は止まらない。
「数字こそが真実です。例えば、この三週間の鉄材の輸送記録。実戦を行っているはずの兵たちの装備の更新頻度が、訓練時以下だ。一方で、貴公の城に運び込まれた石材と、城壁補強用の厚鉄板の量は、通常の修繕報告の四倍に達している。この乖離を説明できるのは、籠城を前提とした城塞強化以外に存在しない。貴公の『独立』という願望が、物流の数字を歪ませたのです」
フランは一歩、踏み出した。彼の背後には、彼を守るためにリリアーヌが付けた数人の護衛兵がいるだけだ。だが、バルド公には、フラン自身が巨大な帝国の影そのものに見えていた。
「さて、公。ここで私が、この数式の綻びを帝都へ報告すればどうなるか、想像できますか?」
フランの声には、獲物を追い詰める毒の響きがあった。
「南の鋼鉄卿を呼び戻すまでもない。帝都の北西、わずか三日の距離に駐屯している『黒狗』の粛清歩兵大隊をご存知でしょう。彼らの将であるラグナス将軍は、南の戦功争いから外されたことにひどく苛立っている。手近な、そして確実に首を撥ねても罪にならない『裏切り者』の情報を、今か今かと待っているのですよ」
「黒狗」の名が出た瞬間、広間の空気が一変した。
彼らは戦闘を好む純粋な武人ではない。裏切り者をなぶり殺し、見せしめにすることに長けた皇帝直属の掃除屋たちだ。その残酷さは北方の貴族たちにも骨の髄まで知れ渡っていた。
バルド公の額から、脂汗が滲み出る。
「リリアーヌ殿下は、北方の安定を望まれている。殿下を悲しませるような、血生臭い粛清という名のノイズは、今の私には耐え難い」
フランは懐から、リリアーヌの刺繍が入ったハンカチを取り出し、指先でその縁をなぞった。
「条件は三つです。第一に、私兵の即時武装解除。第二に、過去一年間に着服した軍資金の全額返還。そして第三に、蛮族と交わした密約の内容をすべて私に引き渡しなさい。蛮族は私が、貴公よりも遥かに『効率的』に管理します」
バルド公の拳が震える。屈辱、恐怖、そして驚愕。
かつてアムルの地で道具として使い潰されようとしていた四男坊が、今、自分という一個人の愛のために、一国の領主を屠ろうとしている。
「……三秒です。三、二――」
「待て! 分かった。……指示に従おう」
公が力なく椅子に沈み込んだ。広間の貴族たちも、もはや誰もフランを「敗将」とは呼べなかった。彼らが目の当たりにしているのは、絶望の果てに感情を捨て、代わりに守るべき者のための冷徹を手に入れた、再起動後の怪物だった。
その夜。バルド公国の冷たい星空を、フランは城のバルコニーから一人で見つめていた。
手元には、公から差し出されたばかりの密約の書類がある。初仕事は、完璧に終わった。
「非効率なやり方だ」
フランは自嘲気味に呟いた。かつてのように、自分の命を天秤にかけていれば、もっと手っ取り早く解決できたかもしれない。
だが、今の彼は、自分の命を「リリアーヌの所有物」として最大限に尊重しなければならない。その制限が、彼の知略をより緻密に、より回避不能な毒へと変えさせていた。
(カルム兄上。クリス兄上。……あなたたちがアイアン・ピークで流している血を、私はまだ、受け止めることができない)
南の空には、戦火の反映か、赤黒い雲が漂っている。兄たちが自分を救うために戦えば戦うほど、フランの「帝国の軍師」としての価値は皮肉にも高まっていく。
リリアーヌを悲しませないために。一族の血を絶やさないために。
フラン・メルクニアは、かつての裏切られた過去も、私生児としての呪いも、すべてを新しい数式の中に飲み込み、次なる盤面を見つめていた。
「さて。殿下へ、任務完了の報告を。……そして、次は、この国の経済圏の再編に取り掛かるか」
彼の瞳の奥で、冷徹な計算の光が再び明滅し始めた。
メルクニア戦記。その最も不条理で、最も愛に狂った一章が、今、北方の冷たい風と共に本格的な動きを見せようとしていた。




