手に入れた居場所
「……リリアーヌ殿下。ノックの回数は……いえ、もういいです。報告書はそこに置いておいてください」
フラン・メルクニアは、手帳を閉じて深く椅子に背を預けた。
かつて、凍てつく護送馬車の中で「私はもう、誰にも愛されたくない」と願った闇を、彼は今でも鮮明に覚えている。私生児として疎まれ、愛した女にはその血を嘲笑われ、裏切られた。
自分は「誰かのために使い潰される道具」でしかない。そう思わなければ、息をすることさえ苦しかった。
「あら、今日は反論しないのね。……どうしたの、そんなに悲しい顔をして」
リリアーヌが、いつものように距離を詰めてくる。だが、今日の彼女の瞳には、からかうような色はなかった。彼女はフランの前に、一通の古い、そしてひどく汚れた書簡を置いた。
「これ……。私が帝国に来る前に、アムルの地で処分したはずの……」
「そう。貴公を裏切ったあの女が、敵対勢力に宛てた密書。……そして、それを知った貴公の弟たちが、彼女をどう裁いたかの記録よ」
フランの指先が、見開かれた瞳と共に凍りつく。
書面には、末子のマリスやウルフたちが、兄であるフランを愚弄した者たちに対し、一族の誇りを懸けて徹底的な報復を行った事実が記されていた。
「……彼らは、知っていたのですか。私が、彼女に何を言われたのかを」
「ええ。貴公は『未熟』だと突き放していたけれど、彼らは見ていたのよ。貴公がどれほど血を吐く思いで自分たちを守ってきたか。……貴公が自分を『いらない子』だと思っていても、彼らにとって貴公は、代わりの利かない、たった一人の兄だったのよ」
リリアーヌは、絶句するフランの手を、包み込むように握った。
「家族だけじゃない。鋼鉄卿が貴公を生かしたのも、私がこうして貴公の隣にいるのも、貴公が『道具』だからじゃない。……フラン。貴公という人間が、あまりにも不器用で、優しくて……見ていて放っておけないほど、愛おしいからよ」
「誰にも望まれていない」
その呪いの言葉が、リリアーヌの体温によって、粉々に砕け散っていく。
かつて愛した女に投げつけられた侮蔑を、リリアーヌは「愛おしい」という一言で、完全に上書きしてしまった。
「…………分かり、ません」
フランの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
市場での涙とも、アイアン・ピークでの覚悟とも違う。
幼い頃、月光の下で一人木剣を振り続けていた、あの孤独な少年が、数十年越しにようやく「ここにいていい」と許されたような、魂の慟哭だった。
「理屈に、合わない……。私のような汚れ、た、血の人間が……愛されるなんて。そんな、計算……成立するはずが、ない……っ!」
「計算なんて捨てなさい、フラン。貴公の人生の数式には、最初から致命的な不足があったの」
リリアーヌは、椅子に崩れ落ちたフランを、慈しむように抱きしめた。
彼の頭を自分の胸に抱き寄せ、その震える背中を優しく撫でる。
「貴公の数式には、『フラン自身が幸せになる権利』が入っていなかった。……これからは、私が毎日それを書き足してあげる。……もう、自分を石ころみたいに投げ出したりさせないわ」
フランは、リリアーヌの衣を掴んで声を上げて泣いた。
鉄の仮面も、軍師としての冷徹な計算も、すべてが涙と共に流れ出していく。
暗い馬車の底で、死に場所を求めていた男は、もうどこにもいない。
「……ああ、もう。……本当に、貴女には……勝てない……」
不器用な軍師は、ようやく自分の人生を受け入れた。
知性という名の氷が完全に解けた跡には、もはや数式などは必要なかった。
自分を望んでくれる人がいる。ただそれだけのことが、フランにとって、何物にも代えがたい絶対の「正解」だった。
数日後。
黒鉄の別邸の庭で、相変わらず手帳を片手に「効率的な庭園管理」を説くフランと、それを膝枕で聞き流すリリアーヌの姿があった。
「……殿下、聞いているのですか。この灌木配置は不均等で――」
「はいはい、フラン。それより、このお菓子美味しいわよ。あーん」
「……っ、ですから、外でそういう行為は……。……むぐっ」
真っ赤になって口を動かすフランの瞳には、かつての冷たい虚無感はもう、欠片も残っていなかった。




