氷解の証明
「……リリアーヌ殿下。何度も言いますが、私は捕虜です。こんな人混みを歩き回るなんて、危なすぎます。……というか、そもそも、さっきから距離が近すぎませんか」
帝都の市場。フラン・メルクニアは、人生で初めての「デート」という名の強行軍に引きずり出されていた。
あの日、リリアーヌに『好き』と爆撃されてから、フランの頭はまともに働いていない。そんな彼を、リリアーヌは「気分転換よ」と言って連れ出し、その腕をがっしりと掴んで離さなかった。
「いいじゃない、フラン。今は難しい顔をしないで。ほら、あっちの屋台、すごくいい香りがするわよ!」
「……お腹が空くだけです。それより殿下、人が多すぎて歩きにくい。早く帰りましょう」
フランは必死に不満を口にした。そうでも言っていないと、腕に伝わる彼女の柔らかさや、楽しそうな笑顔に、自分の心がどうにかなってしまいそうだったからだ。
だが、リリアーヌは高い宝石にも見向きせず、ただフランと一緒に歩き、フランが困った顔をするのを見て、心底嬉しそうに笑っている。
「ふふっ、本当に貴公は……。ほら、口を開けて。はい、あーん」
「えっ、ちょっと、外でそんな……むぐっ」
無理やり口に押し込まれたのは、揚げたての甘いお菓子だった。
「……甘い。……でも、悪くないです。……というか、美味しい、かも」
そう言って、フランはぷいっと顔をそむけた。耳まで真っ赤になっているのは、隠しきれていない。
「……ねえ、フラン」
不意に、リリアーヌが足を止めた。
「楽しくない?」
覗き込むように、じっとフランの目を見つめる。
リリアーヌは、真っ赤になって固まっているフランの顔を見て、悪戯っぽく口角を上げた。
「……そんなに顔を赤くして。貴公、口では文句を言いながら、本当は嬉しいのね? ふふっ、可愛いところもあるじゃない」
「……ち、違います! これは人混みの熱気で……!」
「嘘つき。私の腕、全然振り払おうとしないくせに」
リリアーヌはさらに距離を詰め、上目遣いでフランを射抜く。その小悪魔的な微笑みに、フランは完全に言葉を失った。
かつての裏切りで冷たく凍りついた心が、彼女の体温で、ぐずぐずに溶かされていく。
「…………分かりません」
フランは、力なくこぼした。
「理屈では、こんなの非効率で、面倒なだけのはずなんです。……なのに、ちっとも嫌だと思えない。……どうしていいか、分からないんです」
「……えっ?」
フランの瞳から、一筋の涙が溢れ、頬を伝った。
彼自身、なぜ自分が泣いているのか、全く分からなかった。悲しくもない、痛くもない。なのに、涙が止まらない。
「フラン……?」
リリアーヌは一瞬目を見開いたが、すぐにその表情を蕩けるような、慈愛に満ちたものに変えた。
「ふふっ……。理屈屋の貴公が、そんな顔をして泣くなんて。反則だわ」
彼女は繋いでいた腕をほどくと、フランの背中に手を回し、そのまま彼の頭を自分の肩へと引き寄せた。人混みの中で、皇女が捕虜を抱きしめるという、本来ならあり得ない光景。
「……殿下、何を……。人が見ています。不敬です、やめて……」
「いいのよ。今は貴公の『演算』が追いつくまで、こうしていなさい」
リリアーヌはフランの耳元で、囁くように言った。
「泣いている理由が分からないなら、私のせいにすればいい。……私が、貴公を困らせるほど愛しているから。だから、心が驚いて零れちゃったのね」
彼女の指先が、フランの涙を優しく拭う。その手の温もりが、フランの中に残っていた最後の一片の氷を、跡形もなく溶かしてしまった。
フランはもう、逃げることも、理屈をこねることもできなかった。ただ、彼女の肩に顔を埋めたまま、止まらない涙を流し続けた。
「……ああ、もう。……本当に、意味が、分からない……」
不器用な軍師は、自分が敗北を認めるよりもずっと深く、彼女に心を奪われていることを、この温もりのなかで認めざるを得なかった。




