軍師の敗北宣言
「……いいですか、リリアーヌ殿下。そもそも、人と人が接触するというのは、衛生面でも精神面でも極めてリスクの高い行為です。ましてや、その……膝、などという柔らかい場所に頭を乗せるなど、私の頸椎にどのような負荷がかかるか。つまり、健康を損なう恐れがあるということです。分かりますか、分かってください」
黒鉄の別邸、午後の柔らかな光が差し込む応接室。フラン・メルクニアは、人生で直面したどの包囲網よりも凄惨な「危機」に瀕していた。
目の前で、帝国の至宝たる皇女リリアーヌが、ソファの上で自らの膝をポンポンと叩き、悪戯っぽく微笑みながらフランを誘っているのだ。
フランにとって、恋愛とは「自分を壊すための欠陥品」でしかなかった。
かつて、故郷メルクニアにいた頃。彼はある女性を信じ、自分の知識も、立場も、未来もすべて彼女のために捧げようとした。だが、彼女が求めていたのはフランという人間ではなく、彼がもたらす「手柄」という利益だけ。利用価値がなくなった瞬間、冷酷に切り捨てられた記憶。
『人は信じれば裏切る。期待すれば傷つく。なら、最初から何も求めず、理屈だけで生きていればいい』
そうやって心を厚い氷の壁で囲い、安全な場所から世界を眺めてきたはずだった。
「ふふっ。フラン、相変わらず言い訳が長いのね。そんなに難しい理屈を並べないと、私の隣に来るのが怖いの?」
リリアーヌは、彼の冷徹な壁を、楽しげな微笑みでひょいと飛び越えてくる。その仕草一つ一つが、フランの頭脳をショートさせる。
「怖い……? 違います、私はただ、捕虜としての分を弁えているだけです。皇女様を枕にするなんて不敬もいいところだ。私は死にたくない。だからこれは、生物としての正当な防御反応なんです!」
「あら、私がいいと言っているのだから、不敬も何もないわ。それに、貴公は働きすぎよ。演習だ、講義だ、父上の相手だと走り回って……。いいから、黙ってここに頭を預けなさい。これは命令よ?」
リリアーヌが身を乗り出し、甘い香りがフランの鼻腔をくすぐる。彼女の指先が、フランの頬に触れようと伸びる。フランは雷に打たれたように飛び退き、壁際まで後退して頭を抱えた。
「やめてください! そんな……優しくされたら、私の調子が狂う。私はただの捕虜で、貴女は帝国を背負う方だ。そこに何の理屈も、メリットもないじゃないですか!」
叫ぶようなフランの声は、もはや軍師のそれではなく、ただの「恋を知らない男」の悲鳴だった。
外では、若き兵士たちが「フラン様は今日も、リリアーヌ殿下と帝国の高度な未来戦略を練っていらっしゃるのだ」と、その背中を崇めるように噂している。その実態が、膝枕ひとつに怯えて壁際に追い詰められた情けない姿だとは、誰も想像すらできない。
「……くそっ、なぜだ。あんなに惨めな思いをして、二度と誰かに心を開かないと決めたのに。どうして、この人の前では、こんなに……」
フランは震える手で手帳を取り出した。だが、書き込むべき「対策」が何も思いつかない。
「……リリアーヌ殿下。貴女の行動は、私の予測をすべて台無しにする。……そんなの、あんまりだ……」
不器用な軍師は、自分の凍った心が、彼女の体温によって恐ろしい速さで溶かされていくのを感じていた。その「熱」が、かつての裏切りを忘れさせてしまうほどに心地よいと思ってしまった自分に、絶望的な敗北感を覚えながら、彼はただただ、真っ赤になった顔を両手で覆うことしかできなかった。
壁際に追い詰められ、頭を抱えて座り込むフラン。かつて彼を裏切った女性は、常に「利用価値」の話をした。だから彼は、自分に価値があるうちは側にいられると誤認した。だが、リリアーヌが向ける眼差しには、そんな打算の欠片も見当たらない。それが彼には、底知れない深淵のように恐ろしかった。
「メリット、ね。貴公は本当に、最後まで理屈の人なのね」
リリアーヌはソファから立ち上がり、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰める。床に座り込むフランの前に膝をつき、彼の視線と同じ高さまで顔を寄せた。
ふわりと舞い込む花の香りと、彼女の体温。フランの明晰な頭脳は、その至近距離での情報量に耐えきれず、激しいオーバーヒートを起こしていた。
「……私の目を見て、フラン。貴公はさっき、メリットがないと言ったけれど。私の心にとっては、貴公と過ごす一秒一秒が、帝都の全財産よりも価値がある。……そうね、理屈っぽく言うなら、私は貴公という『たった一つの存在』を、私の人生における絶対の定数にしたいのよ」
「……定数、ですか。何を、言っているのか……」
フランの瞳が、かつてないほど激しく揺れる。リリアーヌはその震える頬にそっと手を添え、逃げ場を塞ぐように、しかし限りなく愛おしそうに囁いた。
「分からない? なら、もっと簡単な言葉で教えてあげる。……私、貴公のことが好きなのよ。軍師としてでも、捕虜としてでもない。フラン、貴方という一人の男を、愛していると言っているの」
――その瞬間。
フラン・メルクニアというシステムは、物理的な火花を散らすように、完全にフリーズした。
思考が、止まった。
かつて裏切られた記憶も、戦場で練り上げた必勝の策も、将軍との軍事議論も。あらゆるデータが真っ白に塗りつぶされ、脳内に残ったのは『愛している』という、あまりにも非論理的で、かつ重すぎる言葉の残響だけ。
「…………えっ?」
数秒後。ようやく漏れたのは、天才のそれとは思えない、情けないほど間の抜けた声だった。
フランは真っ赤な顔のまま、目を見開いて硬直している。まばたきすら忘れ、口を半開きにしたその姿は、まるで精巧な彫像のようだった。
「あら、フリーズしちゃった?」
リリアーヌは、自分の告白がもたらしたあまりの反応の良さに、思わずクスクスと笑い声を漏らす。彼女は追い打ちをかけるように、固まったままのフランの額に、自らの額をコツンと合わせた。
「返事は今すぐじゃなくていいわ。でも、これからは計算に入れなさい。私の好意は、貴公がどれほど拒絶しても消えない『決定事項』なんだから」
そのまま、リリアーヌは満足げに立ち上がり、嵐のように部屋を去っていった。
残されたのは、壁際で真っ白になったまま動かないフランと、静寂。
……数分後。
ようやく指先が震えだし、フランは呪われたように手帳を取り出した。だが、そこに書かれた文字は、もはや判読不能なほどに乱れていた。
「……理解、不能……。解析、不可能……。なんだ、これは……心拍数が通常の百六十パーセント……脳内圧の上昇……。不条理だ……こんな不条理があっていいわけがない……!」
外では、若き兵士たちが「フラン様は今、リリアーヌ殿下との高度な交渉を終え、次なる戦術の境地に達したに違いない」と、部屋から漏れる異常な気配を感嘆の面持ちで見守っている。
その実態は、一人の不器用な男が、ただ一言の『好き』という言葉に、人生最大の敗北を喫して崩れ落ちている姿だった。
閉ざした氷の扉は、もはや跡形もなく砕け散っていた。フラン・メルクニアの「自我」は、このあまりにも非効率で熱い感情の渦に、否応なしに飲み込まれていくことになる。




