凍土の残響
演習場での一件以来、フランを取り巻く環境は劇的に変貌を遂げた。かつては冷ややかな監視の目が向けられていた黒鉄の別邸は、今や帝都中の好奇の視線にさらされる、最も「熱い」場所となっていた。
別邸の周辺には、フランの指揮によって「最強の部品」へと生まれ変わった若者たちが、非番のたびに集まるようになった。彼らはフランに教えを請うため、あるいは単にその姿を拝むためだけに、門前に列をなした。
「フラン様! 先日の重心移動の理論、実戦で試したところ、先輩兵士の懐を容易く獲ることができました!」
「フラン様! 今日の講義はありませんか!?」
若者たちの瞳には、もはや隠しようのない狂信的な熱が宿っている。彼らにとってフランは、自分たちの無価値さを否定し、新たな命を吹き込んでくれた「冷徹なる救世主」であった。
一方、メンツを丸潰しにされた幕僚たちは、練兵場の隅で苦虫を噛み潰したような顔を並べていた。
「……捕虜の分際で、帝国の若者をあのように作り変えるとは」
「人心を掌握する術までも心得ているのか。恐ろしい男だ」
彼らが抱く懸念は、フランが意図的に若者たちを「洗脳」しているのではないかという疑念であった。だが、当のフラン本人は、その「チヤホヤ」される状況に、過去最大級の当惑を隠しきれずにいた。
ある日、別邸の応接室。フランは手帳を握りしめたまま、目の前の「イレギュラー」な事象に硬直していた。
「……貴公が、鋼鉄卿と我が父上が目をかけているフラン・メルクニアね」
そこにいたのは、帝国の皇女であった。彼女は父である皇帝が「とんでもない掘り出し物」と絶賛した捕虜の正体を見定めるべく、自ら足を運んできたのだ。皇女の瞳には、打算のない純粋な、そしてそれ故に厄介な好奇心が輝いている。
「貴公の知略、そしてあの老元帥を驚かせたという人心把握の妙。ぜひ、私の側近たちにもその極意を伝授していただきたいわ。もちろん、私の家庭教師としても歓迎するけれど?」
フランは、皇女の熱っぽい視線と、窓の外から漏れ聞こえる若者たちの歓声、そして壁一枚隔てた幕僚たちの殺気の間で、深く、深く溜息をついた。
「……極意、ですか。皇女殿下、私はただ、統計的に有意な生存戦略を提示したに過ぎません。人心把握など、解析不能なノイズを扱うような真似、私が最も忌避するところです」
フランはペン先を震わせ、手帳に「予測不能な外的要因:皇族の介入」と殴り書きをした。
「そもそも、なぜ皆様はこうも私の周囲に集まるのですか。私の計算では、捕虜というものはもっと閑散とした環境に置かれるべき存在のはず。……この状況は、極めて非合理的です」
フランはそう毒づきながら、ふと、自分の胸の奥に走った妙な「違和感」に指を止めた。
かつて、愛した人に裏切られ、信頼という名の数式が完膚なきまでに崩壊したあの日。彼は「感情」という不確定要素を演算から完全に排除した。心を閉ざし、世界をただの無機質なデータとして処理することで、二度と傷つかない「最適解」を選び取ってきたはずだった。
だが、窓の外で自分の名を呼ぶ若者たちの声や、目の前で真っ直ぐに自分を射抜く皇女の視線を受けて、死んだはずの「自分」という個が、微かな律動を始めたような錯覚に陥る。
「……データの収集に支障をきたします。速やかに、皆様それぞれの配置にお戻りください」
声は冷淡だったが、その指先はわずかに震えていた。
周囲の熱狂は、彼をただの軍師としてではなく、一人の「フラン・メルクニア」として引きずり出そうとしている。それは彼にとって、どんな軍勢の包囲網よりも恐ろしい事態だった。
不器用な拒絶は、若者たちには「孤高の天才の厳格さ」と映り、皇女には「攻略しがいのある傲慢」と映る。
フランは、自分の人生という計算式が、制御不能な「熱」によって少しずつ、溶かされ始めていることに気づき始めていた。
「……元帥、貴方の言った『最後の一欠片』とは、このような……演算を放棄したくなるような、不快な熱気のことだったのですか」
まだ、雪解けには遠い。だが、知性という氷の鎧に包まれた彼の内側で、閉じ込められていた「自我」が、長い眠りから目を醒まそうと微かな呼吸を始めていた。




