帝都解剖図
演習場での一件は、またたく間に帝都軍部の矜持を逆なでした。捕虜風情が、それも軍の落伍者を集めて精鋭を解体したという事実は、帝国の軍人たちにとって耐え難い屈辱であった。
「一度の奇策に過ぎぬ」「次は我が部隊が帝国の武を見せてやる」
憤慨した幕僚たちは、雪崩を打つようにフランへ模擬戦の挑みをかけた。皇帝はそれらすべてを「余興」として許可し、フランは溜息をつきながら、再び泥にまみれた若者たちの前に立った。
だが、幕僚たちの誤算は、フランの知略が机上の空論に留まらないことにあった。
ある幕僚は、用兵の不利を悟るや否や「ならば指揮官自らの武を見せよ」と、フランに一騎打ちを要求した。文弱な軍師と侮っての暴挙であったが、フランは手帳を閉じると、無造作に訓練用の木剣を手に取った。
「……面倒ですね。格闘戦もまた、重心の移動と筋力の伝達効率という物理現象に過ぎないのですが」
挑みかかった大柄な幕僚の剣筋を、フランは最小限の動作で受け流した。相手の踏み込みが深くなる一瞬、その重心が崩れる刹那を突き、フランの木剣が相手の喉元を正確に打つ。
「無駄な力みです。その構えでは、次の動作に移るまでに零点五秒の空白が生じる」
次々に挑みかかる幕僚たちは、用兵術で軍をすり潰され、最後には個人の武においても、急所を的確に突くフランの冷徹な一撃の前に沈んだ。彼らにとって、フランの知略と武術は、どちらも「無駄を削ぎ落とした生存の最適解」であり、そのあまりの合理性に手も足も出なかった。
そんな中、一人の男がフランの前に現れた。
帝国の前線を支える智将、レオン将軍。彼はフランがこれまで相手にしてきた無能な幕僚たちとは一線を画していた。
二人の間で繰り広げられたのは、極限まで磨き上げられた知性と武の削り合いであった。フランが罠を張れば、将軍は兵の士気を巧みに操ってそれを回避する。将軍が猛攻を仕掛ければ、フランは地形の利をミリ単位で利用してその威力を相殺した。
「……実に見事だ。これほどまでに理詰めで行き詰まるとは。貴公の目は、戦場を数式で見ているのか」
数時間に及ぶ均衡の末、演習は「引き分け」として幕を閉じた。互角。フランにとって、初めて自らの計算が完全に均衡し、膠着した相手であった。
だが、その均衡を易々と打ち破る者が現れた。
帝国軍最高位、バルガス元帥。白髪に覆われたその老将は、盤面を見ることもなく、ただ一言「始めよ」と命じた。
フランはいつものように、敵の行動を予測し、最適解を導き出そうとした。しかし、元帥の動かす兵は、フランの予測をすべて裏切った。理屈では退却すべき場面で、兵たちが咆哮を上げて突き進む。全滅を恐れぬその挙動。フランの計算機は、その非合理な挙動にエラーを吐き出した。気づけば、フランの陣営は人心のうねりに呑み込まれ、完敗を喫していた。
「私の……負けですね。なぜ、あのような全滅不可避の機動を選択できるのか。理解不能だ」
手帳を握りしめ、フランは唇を噛んだ。敗北の痛みよりも、自分の数式を無視して動く「人心」という変数を制御できなかったことへの当惑が勝っていた。
すると、元帥はフランの傍らに歩み寄り、その手帳を一瞥して低く笑った。
「不服そうだな、若き軍師よ。私が貴様に勝てたのは、ただ一つ。貴様がまだ、兵という素材の血の通った『揺らぎ』を知らんからだ。人心の機微を読み、それを熱狂という力に変える。今の貴様には、その最後の一欠片が欠けている」
元帥は観覧席で見守る皇帝を振り返り、誰もが驚愕するような評を口にした。
「陛下。このフランという男、今はまだ未熟です。だが、奴は今、敗北を解析し、その『不条理』すらも数式に取り込もうとしている。……恐ろしいことです。人心という不確定要素を完全に把握したとき、数年後にはこの私ですら、一瞬で追い抜かれているでしょうな」
その言葉を聞いた皇帝は、背もたれから身を乗り出し、獣のような鋭い瞳をフランに定めた。
「……クク、ハハハハハ! あの元帥が、これほどの賛辞を捕虜に送るとはな。鋼鉄卿め、これほどまでの逸材を隠し持っていたとは」
皇帝は愉快そうに、しかしその声には隠しきれない独占欲と野心が宿っていた。
「とんでもない掘り出し物を得たものだ。フラン・メルクニア、貴公をただの捕虜として飼い殺すのは、あまりにも勿体ない。余の帝国という数式に、貴公という最強の変数を組み込んでやりたくなった」
周囲の若者たちは、元帥を追い抜くと言わしめたフランの姿にさらなる崇拝を深めるが、フラン本人はただ、理解不能な「心」という数式を前に、不器用にペンを走らせるのだった。
「……数年後などと悠長なことは言っていられません。今すぐ解析し直さなければならない項目が山積みです。全く、これだから人間という素材は……」
天才の敗北と、伝説の老将による危惧、そして皇帝の歓喜。
帝都を包む静寂の中で、フラン・メルクニアの飽くなき好奇心は、ついに「心」という名の深淵へと、その冷徹な触手を伸ばし始めていた。




