無自覚の救済
帝都大バルガスの軍事演習場を見下ろす豪奢な観覧席。そこには、帝国の絶対者たる皇帝が、退屈を紛らすような皮肉な笑みを浮かべて座していた。
傍らに控える侍従が、震える手で一通の報告書を差し出す。それは、監視役の千人隊長から連日届けられる、悲鳴にも似た憤りの記録だった。捕虜フラン・メルクニアによる執拗なまでの軍事調練への酷評。帝国の誇る「鋼の規律」を、非効率な人形劇だと切り捨てるその毒舌は、もはや一介の捕虜として看過できる域を超えていた。
しかし、皇帝は報告書を読み終えると、低く、愉悦に満ちた声を漏らした。
「面白いではないか。あの鋼鉄卿が『殺すには惜しい』と断じ、わざわざアイゼンからこの帝都まで生かして運ばせた男だ。口先だけか、あるいは真に理を穿つものか。余が直接検分してやろう」
皇帝は、かねてより鋼鉄卿が執着を見せたこの「知性の怪物」の底知れなさを、自らの目で確かめたいという衝動に駆られていた。そして下された勅命は、前代未聞の、そしてあまりに悪趣味な余興であった。
「他国の捕虜に帝国の兵を率いさせ、正規の精鋭部隊と演習を行わせる。フラン・メルクニアよ、貴公の言う『効率』とやらを、余の目の前で証明してみせよ」
フランに与えられたのは、帝国の軍としての合理性からこぼれ落ちた、名もなき若者たちだった。
徴兵されたばかりで剣の重さに振り回される農家の三男坊、教習の基礎歩法すら満足にこなせず「出来損ない」の烙印を押された末弟、そして戦場を経験する前に負傷し、使い捨てを待つだけの少年兵。彼らに共通しているのは、若さゆえの未熟さと、教官たちから「無価値」だと叩き込まれ続けたことによる、深い絶望だった。
「……あんた、本気なのか。俺たちみたいな、教習所のゴミ屑を率いて、あの精鋭に勝てるなんて。どうせ俺たちは、あんたの体面を守るための捨て駒なんだろ」
一人の少年兵が、震える声でフランを睨みつけた。その背後には、他国の捕虜に命を預ける不安と、負けることに慣れきった卑屈な顔が並んでいる。
フラン・メルクニアは、その少年たちの震えを憐れむこともなく、ただ検品でもするかのような冷徹な眼差しで彼らを射抜いた。
「勘違いしないでいただきたい。私は貴方たちに、帝国の兵士になれと言っているのではない。ただの『部品』として、私の計算式に嵌まりなさいと言っているのです」
フランは一人の少年の前に立ち、泥に汚れたその手を無造作に掴み上げた。
「貴方は農家の出身ですね。鍬を振るうために鍛えられたその広背筋は、槍を真っ直ぐ構えるには不向きですが、投石機のような異常な回転力を生む。貴方の価値は、正面からの激突ではなく、敵が想定だにしない角度からの奇襲投擲にある」
フランは次々と、若者たちの「弱点」として切り捨てられていた特徴を、戦術的な「機能」へと読み替えていった。
「貴方は体が小さすぎるのではなく、死角に入り込むのに適している。貴方は臆病なのではなく、生存本能が鋭い。……いいですか。帝国は貴方たちを『不適格』と呼びましたが、それは彼らの想像力が貧困だからに過ぎません。私の盤面において、不要な駒など一つも存在しない」
演習の火蓋が切られた瞬間、観覧席の皇帝は身を乗り出した。
対戦相手である千人隊長率いる精鋭部隊が、まるで巨大な鋼の壁のように、地響きを立てて進軍を開始する。帝国の誇る重装歩兵の圧力は、通常であれば未熟な兵をパニックに陥れるのに十分な威圧感を持っていた。
だが、若者たちの耳には、高台から響くフランの透き通った声が、驚くほど冷静に届いていた。
「第1班、散開。恐怖に身を任せる必要はありません。五歩下がれば、敵の重装鎧が泥に足を取られる音が聞こえるはずです。そこが、彼らの『隙』です」
若者たちは驚愕した。指示通りに動くだけで、あれほど巨大な怪物に見えた精鋭たちが、滑稽なほど不器用な鉄の塊に見えてくる。自分たちの軽い体躯は、ぬかるんだ練兵場において、重装兵を翻弄するための最高の武器へと変わっていた。
「今です。第2班、膝を狙いなさい。美しすぎる隊列は、一列が崩れればすべてが連鎖して壊れる。ただの物理現象です」
フランの指揮は、未熟な若者たちを、帝国の洗練された規律を食い破る「蟻の群れ」へと変貌させていた。精鋭たちは、自分たちが一度も教習で習わなかった「泥臭い、理不尽な機動」に翻弄され、次々と転倒し、無様に泥を舐めていく。
泥に塗れた精鋭部隊の旗印が地に落ちたとき、広大な練兵場を支配したのは、耳が痛くなるほどの沈黙だった。
若者たちは自分の震える手を見つめ、それから高台に立つフランを仰ぎ見た。彼らが人生で初めて味わったのは、単なる勝利の快感ではない。無価値だと切り捨てられた自分という存在が、正しく「機能」し、巨大な力を打ち破ったという、魂を揺さぶる充足感だった。
「……フラン様、俺、俺たちは……!」
農家出身の少年が、感極まった声を上げた。彼は泥の中に膝をつき、まるで暗闇に差し込んだ唯一の光を拝むかのような、熱狂的な眼差しをフランへ向ける。
「俺たちはゴミじゃない……あんたがいれば、俺たちは、何にだってなれる……!」
一人、また一人と若者たちが地面に膝をつき、他国の捕虜であるはずのフランを新たな神、あるいは絶対的な真理を語る預言者であるかのように崇め奉り始めた。
だが、その熱狂の渦の中心にいるフランは、手帳を開いたまま、ひどく困惑した表情を浮かべていた。
「……なぜ、跪いているのですか。清掃の指示はまだ出していませんよ。それに、次の項目のデータ収集に移りたいのですが、今の姿勢では機動力の測定が不可能です。速やかに立ちなさい」
フランの冷淡な言葉は、彼らの熱狂にさらなる油を注ぐだけだった。「なんと謙虚なお方だ」「俺たちの不甲斐なさを許してくださっている」といった勝手な解釈が若者たちの間で急速に広まり、彼らの瞳にはさらに深い陶酔の色が混じり始める。
「いえ、フラン様! 俺たちは、あんたの足跡をどこまでも追っていくと決めたんだ!」
「……足跡? 意味が分かりません。私はただ、閣下の軍における効率の悪さを、貴方たちというサンプルを使って実証したに過ぎないのですが」
フランは困り果てたように眉を寄せ、ペン先をこめかみに当てた。
彼にとって、一族の絆や愛というものは、否定すべきものではなく、単に「計算式に組み込む方法が不明な定数」に過ぎなかった。弟ウルフへの期待も、家族への想いも、彼の中では「合理的支援」という無機質な言葉に変換されて処理される。彼は自らの情愛を自覚できないほどに、知性に特化した不器用な男だった。
だからこそ、目の前の若者たちが放つ、予測不能な「熱」が理解できない。なぜ自分という数式に従った部品たちが、突如としてこのような非合理な昂ぶりを見せるのか。彼の卓越した知能をもってしても、この情緒的な反応は解析不能なエラーであった。
その光景を玉座から見届けていた皇帝は、背筋に走る戦慄を愉悦で塗りつぶすように、深く座椅子に沈み込んだ。
「……恐ろしい男だ。落伍者たちに『魂』ではなく『役割』を与え、一日にして狂信者に変えたか。しかも、本人はその自覚すらなく、ただ純粋な合理性の徒であるとはな。鋼鉄卿よ、貴公の眼力、正しかったと言わざるを得んな」
高台のフランは、自分に向けられた異様なまでの崇拝を振り切るように、足早に別邸へと戻る準備を始めた。
「……集団心理による個人の能力補正、予測値を大幅に逸脱。情緒的共鳴による誤認……。全く、これだから人間という素材は扱いにくい。データの再現性が著しく低い」
その胸の奥底にあるはずの、家族や故郷への無自覚な想い。それが彼をこの極北の地で突き動かす原動力の一つであることに、彼はまだ気づいていない。完璧な軍という究極の真理を解き明かしたいという知的好奇心。その裏側に隠された、あまりにも不器用な「守るための知性」が、帝都の夜を静かに、そして劇的に変えようとしていた。




