琥珀の契り
王都のメルクニア邸。その裏門に、馬を駆り、泥と汗にまみれた二人の若者が滑り込んだのは、謁見の間での騒乱がようやく収まった宵の口のことだった。
「マリス様!」
石畳を叩く馬蹄の音を聞きつけ、屋敷から飛び出してきたのは、誰あろう婚約者のエレナだった。彼女は貴族の令嬢としての体面も忘れ、従者たちが手綱を取るのも待たずに、馬から降りたばかりのマリスの胸へと飛び込んだ。
「……エレナ、ただいま。汚いよ、鎧が血と泥で……」
「構いません、そんなこと! 生きて、本当にお戻りくださった……」
マリスの首筋に顔を埋めた彼女の肩が、激しく上下している。鉄の匂いと硝煙の混じるマリスの体温を感じ、彼女は初めて、この数週間の悪夢から覚めたかのように涙を溢れさせた。マリスは戸惑いながらも、細い彼女の背に腕を回し、その震えを鎮めるように強く抱きしめた。
深夜、静まり返った私室。
戦装束を脱ぎ捨て、湯で体を清めたマリスだったが、その心は未だにアイゼンの寒風の中にあった。椅子に腰掛け、窓の外の暗闇を見つめる彼の背中は、どこかひどく小さく見える。
背後で、重い扉が音もなく閉まった。
振り返ると、そこには薄衣を纏ったエレナが立っていた。彼女の頬は赤らみ、手にした燭台の火が、その震える指先を強調している。
「マリス様。……今夜は、お側を離れたくないのです」
その言葉の意味を、マリスは痛いほど理解した。明日になれば、彼は再び上位の兄たちと共に、地獄の戦場へと取って返さねばならない。これが今生の別れになるかもしれないという予感は、二人の中に等しく、鋭い棘となって刺さっていた。
エレナが歩み寄り、マリスの隣に跪く。彼女が自らの衣に手をかけ、白い肩を露わにしたとき、室内を支配していた空気は、一気に濃密な熱へと変わった。
「エレナ、僕は……」
「分かっております。……わたくしも、初めてなのです。でも、だからこそ、今ここで貴方様とひとつになりたい。極北の地で貴方様が独りになったとき、わたくしの温度が貴方様を温められるように」
マリスは息を呑んだ。自分もまた、女性の肌に触れるのはこれが初めてだった。戦場では勇ましく副官を討ち取った戦士であっても、この狭い寝室の中では、一人の不器用な少年に過ぎない。
彼は震える手で彼女を抱き寄せ、吸い寄せられるように唇を重ねた。触れ合う肌と肌は驚くほど熱く、同時にどちらも小刻みに震えている。マリスが彼女を寝台へと誘う動作は、どこかぎこちなく、慈しむような初々しさに満ちていた。
消えかけた蝋燭の灯火が、重なり合う二人の影を壁に長く映し出す。
アイゼンの雪原で命を奪うために振るってきた腕は、今はただ一人の少女を慈しむためだけにあり、初めて知る互いの体温は、死の恐怖に凍てついた心を内側から溶かしていった。
不慣れな手つきで重ねられる愛撫と、切実な吐息。それは、死の影に追われるように生きてきた少年と、彼を信じて待ち続けた少女が、ついに心も体も一つに結ばれた瞬間だった。互いの存在を奥底まで受け入れ、混ざり合う熱の中で、二人はこの世でたった一人の「愛する人」を得たという確かな充足に満たされていく。言葉よりも重い誓約が、重ねられた肌を通じて静かに、しかし深く刻まれていった。
夜明け前。窓の外が白み始めた頃、マリスは腕の中で眠るエレナの寝顔を見つめていた。昨夜までの自分を覆っていた死への恐怖は、今、別の形に変わっていた。それは、死にたくないという弱さではなく、やっと心身ともに結ばれたこの温もりを、何としても守り抜かねばならないという、鋭利な決意だった。
「エレナ。……君という盾を、僕は心に刻んだ」
彼女を揺り起こさぬよう、そっと額に口づけを落とし、マリスは立ち上がった。椅子に掛けられた重い鉄の甲冑が、朝日を浴びて冷たく光る。
次にこの部屋の扉を開くときは、必ずフランを連れ、メルクニアの全員で笑い合っている。
その誓いを胸に、男へと成長を遂げた末弟は、再び戦場へと続く回廊を歩み始めた。運命の天秤は今、王都から再び北へと大きく傾き始めていた。




