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メルクニア戦記  作者: 風花
第二章
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王女の狂愛

 王都にあるメルクニア邸。マリスが再び北の戦場へと発った翌朝。朝日が差し込む私室で、国王ユヌベクスの実娘であるイザベラとエレナの姉妹は、二人きりで向き合っていた。

 メルクニア家は王国の正統なる盾。だが、この血の結束は、王命によって整えられたものではない。かつて、王宮のパーティーで見かけたウルフに対し、イザベラが周囲の反対を押し切り、王女の身分も誇りも捨てて「押しかけ妻」としてその座を勝ち取ったという、王宮の語り草となるほどのスキャンダルの果てにあるものだった。国王ユヌベクスは、ただその娘の異常な執着を、メルクニアを繋ぎ止める鎖として利用したに過ぎない。


 イザベラは窓辺に立ち、指先で自分の唇をなぞった。その瞳には、今ここにない「あの夜」の光景が、勝利の記憶として鮮明に浮かび上がっている。

「思い出すわ、エレナ……。退屈極まりない王宮のパーティー。煌びやかなシャンデリアの下で、男たちは皆、私に取り入ろうと浅ましい笑みを浮かべていた。けれど、部屋の隅で所在なげにグラスを回していたあの方を見た瞬間……私の世界から、雑音が消えたの」

 イザベラの語り口は、恍惚とした熱を帯び始める。

「あの方の瞳には、権力への渇望も私への下卑た欲望もなかった。ただ、戦場を見据えるような冷徹でいて、どこか悲しげな光……。気づいたときには、私は父上の制止も振り切って、あの方の胸元に飛び込んでいたわ。驚いて目を見開くあの方を抱きしめて、全列席者の前で叫んだのよ。『この男は私のものよ! 今日、今この瞬間に、私たちは婚約したわ!』ってね」


「……お姉様、本当にお変わりになりませんね」

 エレナは溜息をつくしかなかった。当時、王国中に激震が走った「王女の略奪宣言」。あまりの傍若無人さに父ユヌベクスは呆れ果てていたが、同時にその冷徹な計算が働いたのも事実だ。狂おしいまでの娘の執念を「好機」と捉え、一気にメルクニア家を王家の懐に取り込む楔として利用したのだ。

「父上は、私のこの激情を笑いながらも歓迎したわ。メルクニアの武威を王室に縛り付ける鎖としてね。……けれど、私はそんな利用価値すらも愛おしい。あの方の隣にいられるなら、私は王国の最強の駒にだってなってやるわ!」

 イザベラは急に立ち上がると、自らの肩を抱くようにして震え始めた。それは寒さではなく、抑えきれない情熱の震えだった。

「結婚式の前から、あの方と私は……そう、貴女たちと同じように、言葉にならないほど激しく求め合ったわ。いいえ、私が無理やり求めさせたのよ! あの方の体温、吐息、私を呼ぶ声……。まだ婚姻の儀さえ済んでいなかったけれど、私はあの方の種をこの身に宿した。あの方を逃がさないために、あの方の運命を私という檻で縛り上げるために!」


 イザベラはエレナの肩を掴み、顔を極限まで近づけた。その瞳は完全に見開かれ、王女としての理性は霧散していた。

「あの方が傷つく? 指一本でも汚される? そんなことは、この私が、この世界の全てを焼き尽くしてでも阻止してみせるわ! 私がどれほどの思いであの人の妻の座を奪い取ったと思っているの!? ウルフが傷つくくらいなら、軍神の首をこの手で引きちぎってやりたい! 父上の救援軍? 王国の誇り? そんなもの、ウルフの爪先ほどの価値もない! 私は、あの方を勝利させるためなら、王家の蔵を空にしても構わないし、たとえ父を裏切ることになっても躊躇わないわ!」


「お、お姉様……少し、落ち着いてください……」

 エレナは、見たこともない姉の形相にたじろぎ、思わず後退りした。愛という名の呪縛、その深淵に触れた恐怖で背筋が凍る。

「落ち着いてなんていられるはずがないわ! 今、この瞬間も、あの方は戦っているのよ! あの方の戦う姿は、まるで戦場を舞う芸術……軍を操るあの方の才は、神すらも嫉妬するはず。……ああ、ウルフ、私の愛しいウルフ! 貴方の帰る場所は、この腕の中以外にありはしないわ!」

 イザベラは狂おしげに叫ぶと、再び机に向かい、猛烈な勢いで書状をしたため始めた。

「さあ、エレナ。ぼうっとしている暇はないわ。父上の救援軍をさらに急かさなければ。王女としての特権を全て使い、最高級の、最高の補給を送り届けるの。あの方が『これなら勝てる』と微笑んでくださるまで、私は、王都というこの戦場を、一滴の血も残さぬまで蹂躙してみせるわ!」

 イザベラは優雅に、しかしどこか冷徹な笑みを浮かべて茶を啜った。その背後には、一目惚れという落雷に打たれたあの日から、一歩も引かずに愛を貫き、押し通し続けてきた王女の、恐るべき執念が渦巻いていた。


「マリスも、貴女という盾を得て強くなったわ。……けれど、ウルフは私の全て。あの方は、私が奪い取り、守り抜くと決めた唯一の光。……必ず、奪い返してみせる。軍神の手から、あの方を……」

 イザベラはそこまで一気に語ると、憑き物が落ちたようにふっと視線を落とした。だが、その唇にはまだ、甘美な記憶の残滓が貼り付いている。

「ねえ、エレナ。あの方が、どれほど戸惑っていたか想像できる? 王女である私に無理やり唇を奪われ、その日のうちに寝所まで押し掛けられた時の、あの困り果てたような、けれどどこか私を突き放せない優しい眼差し……」

 彼女は自分の白く細い指を見つめ、陶酔したように言葉を継いだ。

「あの方の『初めて』を奪ったのは、この私よ。そして私の『初めて』を捧げたのも、あの方だけ。王宮のしきたりも、そんなものはあの方の肌の熱に比べれば、灰に等しかった。私は、あの方という戦士を私の愛で雁字搦めにして、二度と王家からも、運命からも逃げられないようにして差し上げたの。あの夜、私を抱いたあの方の腕の震えを、私は一生忘れない。あの方は、私の狂気を受け入れることで、本当の意味でメルクニアという家の重責と、私という呪い……いいえ、愛を背負ったのよ」

 イザベラは再び猛然と筆を走らせ、封蝋を押し付けた。その動きは、もはや一国の王女というよりは、戦場の指揮官そのものだった。

「さあ、行きましょう。マリスが発った今、次は私たちの番よ。父上ユヌベクスには、私から直接釘を刺してやるわ。メルクニアを使い潰そうなんて考えは捨てて、全力を注げとね。あの方を、私のウルフを……無傷で私の元へ帰さないというのなら、私はこの国を内側から食い破ってでも、新たな地獄を作ってやるわ」

 イザベラは立ち上がり、呆然と立ち尽くすエレナの肩を優しく、しかし有無を言わさぬ力強さで叩いた。

「怖がることはないわ、エレナ。私たちは、愛する人のために牙を剥く獣になればいいの。……必ず勝つわ。あの方たちがアイゼンを砕き、私たちが王都を支配する。それが、メルクニアに嫁いだ王女たちの、本当の『開戦』よ」

 イザベラは優雅な所作で部屋を出ようとしたが、扉に手をかける直前、一度だけ振り返った。その瞳には、狂愛と呼ぶにふさわしいギラついた光と、夫を想う一途な熱が同居していた。

「愛しているわ、ウルフ。貴方の戦場は、全て私が買い取ってあげる」

 その言葉を最後に、イザベラは力強い足取りで廊下を歩み始めた。


 北の空には、暗雲を切り裂くような鋭い光が差し始めている。それは、愛という名の狂気に突き動かされた二人の王女が、歴史を裏側から塗り替えようとする、反撃の狼煙のろしのようでもあった。

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