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メルクニア戦記  作者: 風花
第二章
36/45

アイゼン要塞の残光

 アイゼン要塞の巨大な影から数里離れた、切り立った断崖の合間。メルクニア軍の臨時野営地には、緒戦の勝利を祝う歓喜の声はなく、ただ重苦しい疲労と、凍てつく風の音だけが支配していた。

 本陣の中央、焚き火の爆ぜる音だけが響く天幕の中で、エジル・メルクニアは血の乾いた黒槍を傍らに置き、地図を見つめていた。その周囲には、戦いから帰還した息子たちが座している。


「……討ち取ったはずなのに。帝国の副官を、この手で確実に仕留めたはずなのに」

 マリスが、まだ震えの止まらない自分の掌を見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。隣に座るウルフも、肩に巻かれた包帯を指でなぞりながら、虚ろな目で火を見つめている。

 彼らは確かに、帝国軍の片翼を担う猛将ヴォルガを屠った。それは本来、アーシア全土に轟くほどの殊勲であるはずだ。だが、彼らの心を満たしているのは、達成感ではなく、底の見えない「壁」への絶望だった。

「あの鋼鉄卿という男。ヴォルガが討たれたと知っても、軍の統制が一切乱れなかった。それどころか、奴が中央に戻った瞬間、帝国軍の全兵士が、まるで一つの巨大な意志を持つ機械のように静まり返ったんだ。あの静寂こそが、何よりも恐ろしかった」

 エルムが忌々しげに吐き捨て、斧の柄を握りしめた。右翼で鋼鉄卿と直接刃を交えた彼には、分かっていた。自分たちがどれほど命を削り、死力を尽くしてヴォルガを討ち取ろうとも、あの軍神が健在である限り、帝国という巨大な機構は何一つ損なわれていないのだ。


「五千の我らが死力を尽くし、奇跡のような連携でようやく一人の将を屠った。だが、敵にはまだ三万の兵と、アイゼンという不落の要塞が残っている。食糧の備蓄、兵の疲弊、そして圧倒的な物量差……。父上、我らはこれから、どうすればいいのですか。アイゼンは、まだあんなにも遠い」

 ウルフの悲痛な問いに、エジルは静かに顔を上げた。その瞳には、途方に暮れる息子たちとは対照的に、冷徹なまでの「現実」が宿っていた。

「……嘆く必要はない。ヴォルガを討ったことで、我々は最低限の『参加資格』を手に入れたのだ。このまま我らだけでアイゼンを抜くことが不可能であるなど、初めから分かっていたことだ」

 エジルは懐から、一通の封書を取り出し、地図の上に置いた。それは王都ハルノアへ宛てた救援要請の草案だった。

「対帝国戦はアーシア王国の最重要政策だ。メルクニアを『捨て石』として先行させたのは、我らがどれほど本気か、そして帝国の牙をどれほど削れるかを王家が見極めるためだった。……だが、副官ヴォルガを討ち、鋼鉄卿を前線へ引きずり出した。この戦果は、王家を動かすに十分な『実績』となる」

 エジルの言葉に、息子たちの顔にわずかな生気が戻る。エジルは地図の一点を指さした。

「ガイン、マリス。貴公らは夜陰に乗じてここを脱出し、王都へ走れ。王家に対し、『メルクニアは副官ヴォルガを討ち、敵の左翼を壊滅させた。今こそ本軍を投入し、アイゼン奪還の千載一遇の好機を掴め』と伝えるのだ。王都にいるカルムたちとも合流し、貴族院を焚きつけろ。彼らが我らの功績を無視できぬほどにな」


 さらにエジルは、ウルフとエルムを見つめた。

「残った我らは、アイゼンから目を離さず、執拗な小競り合いを繰り返す。鋼鉄卿に『メルクニアはまだ死んでいない』と思わせ続け、奴をこの要塞に縫い止めるのだ。王都の重装軍団が到着するまでの十日間……それが我らの真の正念場となる」

 それは、途方に暮れる暇さえ与えない、緻密で過酷な次の一手だった。メルクニア家だけで戦うのではない。自分たちの流した血を「証拠」として突きつけ、王国という巨大な軍勢を無理矢理にでも戦場へ引きずり出す。それが、フランを救うための唯一の現実的な道筋だった。

「……分かりました、父上。この首が落ちようとも、必ず王都へ声を届けます」

 ガインが力強く頷き、マリスと共に天幕を飛び出していった。

 エジルは再び黒槍を手に取り、暗闇の向こうで不気味に沈黙するアイゼン要塞を見据えた。

 功績に浮かれることも、絶望に沈むことも許されない。

 猛虎の牙は、より深く、より確実に帝国の喉元を狙うために、再び研ぎ澄まされていった。

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