至高の難敵への敬意
アイゼン要塞の最上階、天守閣。吹き荒れる極北の風を全身に浴びながら、鋼鉄卿は漆黒の籠手を外し、自らの手のひらを見つめていた。その指先は、戦いの昂揚からか、あるいは未知の予感からか、わずかに震えている。
「……ヴォルガよ、貴公の死を悼む暇さえない。これほどまでに心が躍るのは、いつ以来だ」
鋼鉄卿の脳裏には、現在進行形で繰り広げられているメルクニア一族との死闘が、鮮烈な輝きを伴って焼き付いていた。
思えば、アイアン・ピークで四男フランを捕らえた瞬間から、彼の中にはある確信があった。フランを検分した際、その若き軍師の練度に鋼鉄卿は密かに舌を巻いたのだ。感情を排し、冷徹に勝利を逆算する思考。そして、一族を逃がすために自らを平然と死地に置く自己犠牲の精度。帝都ハルギスを広く見渡しても、これほどの若才はついぞ見たことがない。この少年は、いずれ帝国の屋台骨を支える大器になるだろうと、鋼鉄卿は彼を正当に評価していた。
同時に、そのフランを救わんとして立ちはだかった上位三兄のことも、彼は認めていた。
部下のために盾となった長男カルム、絶望の中でも牙を剥いた次男ライル、そして、鋼鉄卿の重圧を瞬時に分析し守備陣を再構築した三男クリス。彼らを「将来有望な芽」だと見なしていたからこそ、その柱を抜き取った後のメルクニアは、容易に瓦解するはずだと計算していたのだ。
「……だが、あの一族、誰一人として『端役』がおらんのか」
これこそが、軍神が陥った第一の心理的死角であった。
彼は「個」の強さを理解しすぎるがゆえに、「個」を失った後に残る「群」の変質を過小評価した。フランや上位三兄という主役を欠いたことで、残された年少組が、その穴を各々の執念で埋め合わせ、一つの巨大な「怪物」へと進化したことを。
第二の死角は、鋼鉄卿自身の強者ゆえの傲慢にあった。
彼はエジルが「氷の谷」という閉鎖空間を選んだ際、それが数の不利を補うための、ありふれた策だと断じた。そして、エジルが五男エルムと七男ガインという年少者を突出させた時、それを強者の注意を引くための無謀な陽動だと解釈したのだ。
「見落としたのではない。私は、分かっていてなお、誘い込まれたのだ。あのような未熟な小僧たちが、この私を止められるはずがないという……強者ゆえの選民思想にな」
もしエルムとガインの武が凡庸であれば、鋼鉄卿は中央に居座ったまま、副官の一人に処理を命じて終わりだったはずだ。しかし、彼らは父の信頼に応えた。五男エルムの理屈を暴力でねじ伏せる斧、七男ガインの隙あらば軍神の喉元を掠める神速の刺突。それらは、鋼鉄卿に「自ら出向いて叩き潰さねば、右翼が崩壊する」と判断せざるを得ないほどの猛威であった。
噯き寄せですら、本物の武を持って成り立たせる。エジルは、鋼鉄卿が才ある者を愛で、弱き者を侮る性質を見抜き、敢えて「未熟なはずの息子」を、本物の牙を持たせた噯き寄せとして差し出した。
エジル・メルクニアは、鋼鉄卿という無敗の武人の思考そのものを逆手に取り、戦術的な計算から除外していたはずの「端役」に、ヴォルガの首を獲らせたのである。
「クク……ハハハ! 素晴らしい。フランという傑作を育て、三兄という礎を築き、さらにその影で年少組にさえ、副官を屠るほどの覚醒を仕込んでいたとは」
鋼鉄卿の心の中に、歪んだ支配欲などは微塵も存在しなかった。あるのは、武人としての純粋な敬意だ。自分を驚かせ、自分を翻弄し、自分を「一人の武人」に戻してくれたこの難敵への。
「……行け、伝令。帝都ハルギスへ伝えろ」
彼は窓を開け、冷たい夜風を全身に浴びた。雪原の向こうに、エジルたちの陣火が、挑戦状のように赤々と燃えている。
「『フラン・メルクニアの待遇を最高級に上げ、いかなる干渉も許すな。あやつを傷つけることは、この鋼鉄卿への反逆と見なす』……とな。あやつはもはや、単なる捕虜ではない。私と、私が認めた難敵・メルクニアとを繋ぐ、唯一の絆だ」
鋼鉄卿は、再び面頬を下げ、闇と同化した。
地形も、数も、もはや関係ない。かつてない高揚に震える軍神は、静かに、しかし熱く誓った。
「待っているぞ、メルクニア。貴公らがその熱き血で、帝国の冬をどこまで溶かしてみせるのかを」
アイゼン要塞の天守から放たれたその言葉は、冷たい風に乗って、エジルたちの陣地へと重厚に響き渡っていった。戦いは今、互いの存在を極限まで高め合う、壮絶な魂の交感へと突入していた。




