嵐の前の静けさ
アイゼン要塞の巨大な影が、凍土に長く伸びている。
要塞を包囲するように展開したゼノス帝国の軍勢は、その数、三万。黒一色の重装歩兵が整然と並び、城壁の上には対城魔法の触媒が不気味な光を湛えて並んでいる。それは、力で押し通ろうとする者を例外なく粉砕する、物理と魔導の「拒絶の壁」であった。
対するメルクニア軍、五千。
数の上では圧倒的に不利。さらに、一族の象徴であった長男カルム、武の柱であった次男ライル、智勇を兼ね備えた三男クリスは、先の敗戦による傷を癒すため、王都での療養を余儀なくされている。上位三兄を欠いたこの陣容は、帝国側から見れば「牙を抜かれた虎」も同然に映ったであろう。
だが、本陣中央、漆黒の愛馬に跨るエジルの気迫は、三万の敵軍を飲み込むほどに熾烈であった。
「……父上。敵の第一陣、弓兵が番えました。射程まで、あとわずか」
六男ウルフが、冷静な声で報告する。イザベラの手によって「男」へと鍛え上げられた彼は、もはや戦場に怯える繊細な少年ではない。その瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭く、静かだった。
「待て、ウルフ。……奴が出てくる。小手調べで終わらせるつもりはないはずだ」
エジルは黒槍を膝に置き、要塞の重厚な城門を見据えた。
エジルの言葉を裏付けるように、アイゼン要塞の城門が、地響きを立てて左右に開かれた。
そこから、一騎の漆黒の影がゆっくりと進み出る。
「鋼鉄卿」
三万の軍勢が、その男の登場と共に一糸乱れぬ敬礼を捧げる。その光景は、彼が一兵卒に至るまでその魂を支配していることを物語っていた。
鋼鉄卿はメルクニアの陣から数百メートルの距離で馬を止め、大剣を地面に突き立てた。
「エジル・メルクニア。……満身創痍の三兄を王都に置き去りにし、血気盛んな小僧どもだけを連れて、このアイゼンへ何をしに来た。貴公の四男が繋いだ僅かな余命を、ここで使い果たすつもりか」
その声は、魔法で増幅されているわけでもないのに、風に乗ってエジルたちの耳に明瞭に届いた。
エルムが、ガインが、その挑発に反応して武器を鳴らす。だが、エジルが軽く手を挙げると、彼らは即座にその殺気を抑え込んだ。
「鋼鉄卿。……貴公はフランを『怪物』と言ったそうだな」
エジルが声を張り上げる。その声は、帝国の三万の兵を怯ませるほどの覇気を帯びていた。
「あいつが怪物になったのは、私があいつを『道具』としてしか扱わなかったからだ。私生児として、孤独の中で研ぎ澄まされた刃。……だが、その刃が折れた今、残ったのはただの私の息子だ」
エジルはゆっくりと馬を進め、最前線に躍り出た。
「長男、次男、三男は今、己の無力さを噛み締めながら、弟たちの勝利を信じている。そしてここにいる年少組は、フランへの恐怖を乗り越え、兄を連れ戻すという一点で繋がっている。……貴公の持つ三万の鋼が、この一族の血の熱さに勝てると思うな」
鋼鉄卿は、面頬の奥で低く笑った。
「血の熱さ、か。……よかろう。貴公らがアイアン・ピークで失ったものが『誇り』であったなら、このアイゼンで失うのは『命』そのものとなる。貴公らが一歩でもこの要塞に近づけば、三万の鋼が貴公ら一族を、その歴史ごと塵にするだろう」
鋼鉄卿が突き立てていた大剣を引き抜く。
それが、開戦の合図であることを誰もが悟った。
メルクニア軍側。
八男マリスがエレナの守り袋を握り、剣を抜く。
五男エルムが、調練で一度も勝てなかったフランの背中を思い出し、斧を構える。
七男ガインが、屈辱を晴らすべく足を踏み込む。
ウルフが、イザベラへの愛を力に変え、部隊に最終指示を飛ばす。
エジルは黒槍を正面へ向け、鋭い眼光を敵陣へと突き刺した。
(……セシル、カリン、リーナ。お前たちの祈りは、この槍に乗せた。……フラン、待っていろ。貴様を道具としてではなく、メルクニアの一員として引き戻してやる)
雪が降り始めた。
極北の冷たい風が、赤と黒の軍勢の間を吹き抜ける。
お互いの心臓の鼓動さえ聞こえそうな、張り詰めた静寂。
その糸が切れる瞬間、大陸の歴史を塗り替える激突が、このアイゼン要塞の前で始まろうとしていた。




