孤影の檻
重厚な鉄板で補強された護送馬車が、凍てつく北の大地を刻むように進んでいた。
車内に窓はなく、鉄板の継ぎ目から漏れる僅かな月光が、埃の舞う空間を白く切り裂いている。その中央、床の固定環に繋がれた四男フランは、車輪が石を噛むたびに伝わる振動を全身に受けながら、深い闇の底に沈んでいた。
両手足には、一介の鍛冶屋では外すことすら叶わぬ、精緻かつ頑強な鋼の枷が嵌められている。指先一つ動かすたびに、冷たい鉄が肌を削り、その鈍い痛みがフランの意識を現在へと繋ぎ止めていた。
(……北へ運ばれるか。軍師としての首を撥ねるなら、アイアン・ピークで十分だったはずだが)
フランは、揺れる暗闇の中で己の半生を反芻していた。
一族唯一の「私生児」。その事実は、幼い頃から彼の魂に、決して越えられない透明な壁を築かせていた。正妻、第二夫人、側室。それぞれの強力な実家を後ろ盾に持ち、確固たる居場所を持つ兄弟たちの輝かしい円環。その中に、フランの母の姿はどこにもなかった。
彼はメルクニアという強固な織物の中で、一本だけ混じった質の違う糸――異物であった。
その疎外感を埋めるため、そして何より、後ろ盾のない自分がこの弱肉強食の一族の中で生き残るために、彼は狂気的な執着をもって己を鍛え上げた。
他の兄弟たちが眠りについた後も、フランは一人、月光の下で木剣を振り続けた。手のひらの皮が剥け、肉が露出し、血で柄が滑るようになっても、彼は止まらなかった。古今東西の兵法書を読み漁り、誰よりも早く、誰よりも冷徹に戦局を判断する術を身につけた。
「武」においても「文」においても、彼は一族の誰をも凌駕しなければならなかった。そうして「替えの利かない道具」としての価値を示し続けなければ、明日の命さえ保証されないという抜き差しならない恐怖が、彼を突き動かしていたのだ。
そんな氷のような彼の心に、一度だけ、陽だまりのような光が差したことがあった。
アムルの地で、彼はある女性を心から愛した。私生児としての孤独、生存のための焦燥。それらすべてを「あなたはあなたのままでいい」と受け入れてくれると信じた、唯一の拠り所だった。
だが、その末路はあまりに無惨だった。
一族が亡命の危機に立たされ、フランが死力を尽くして家族を守ろうとしていたその裏で、彼女はフランを裏切っていた。それも、彼が最も忌み嫌っていた、メルクニアを蔑む敵対勢力の男と肌を重ねていたのだ。
愛を誓った唇で他人の名を呼び、献身を約束した指先で裏切りの手引きをしていた。発覚した際、彼女の瞳に宿っていたのは申し訳なさではなく、後ろ盾のない私生児であるフランに対する救いようのない「侮蔑」であった。
「……だって、あなたは結局、誰にも望まれていない子供でしょう? 遊び相手にはちょうどよかったわ。本気で私に愛されるなんて、思い上がらないで」
隣に立つ浮気相手の男と共に、彼を「不浄の血」と嘲笑った彼女の顔。
その瞬間、フランの中で何かが決定的に壊れた。
以来、彼の生への執着は霧散した。自分を拾い、軍師としての居場所を与えてくれたメルクニア家への「借り返し」として、その命を使い潰すことだけが彼の生きる目的となった。彼にとって戦場は、一族への奉公の場であると同時に、己の汚れた血を流し尽くすための「葬送の地」へと変わったのである。
「……随分と物静かだな、メルクニアの四男」
不意に扉が開かれ、漆黒の甲冑に身を包んだ「鋼鉄卿」が姿を現した。馬車が動き出す直前、彼はわざわざこの檻を覗き込み、繋がれたフランを値踏みするような瞳で見下ろした。
「……私を帝国の奥地へ運ぶ理由が分かりません。処刑するなら、街道の脇で十分でしょう。私はもう、死ぬ用意はできている」
フランの枯れた声に、鋼鉄卿は低く、地を這うような笑い声を漏らした。彼はフランの前に膝をつき、鉄の手袋でその顎を軽く持ち上げた。
「処刑など勿体ない。貴公は、あの地獄のような戦場で、ただ一人『自分』を見ていなかった。一族を守るため、兄弟を逃がすため、己の命を道端の石ころのように投げ出した。その冷徹なまでの自己犠牲……。私は、貴公のその『歪み』が気に入ったのだ」
鋼鉄卿は手を離し、立ち上がる。その瞳には、捕虜に対するそれとは異なる、武人としての深い関心が宿っていた。
「貴公の父エジルは、貴公を恐れて遠ざけた。だが私は違う。貴公のような、己を殺してまで他者に尽くす怪物が、絶望の果てに何を見出すのか。それを見届けたくなった。……案ずるな。死に場所を求めるのはまだ早い。貴公のその才、帝国の深淵にて存分に試させてもらおう」
その言葉を残し、鋼鉄卿は立ち去った。
再び扉が閉じられ、馬車が北へと走り出す。暗闇に戻されたフランは、震える手を強く握りしめた。
五男エルム、六男ウルフ、七男ガイン、そして末子のマリス。
かつて自分が「未熟」と切り捨て、突き放してきた弟たち。裏切られ、愛を失い、ただ死に場所を求めていた自分のために、彼らがいつか命を懸けて追ってくるかもしれない。だが今のフランには、その想いを受け止める器さえ残っていなかった。
(……来るな。私は、もう誰にも愛されたくないんだ)
裏切られたあの日から、彼の心は分厚い氷に覆われたまま、誰の体温も拒絶し続けている。
自分が帝国の深奥へと運ばれた先に、何が待っているのか。
この氷を溶かす陽光など、この世のどこにも存在しないと信じたまま、フランはただ揺れる馬車の底で、意識を闇へと沈めていった。




