一族の深淵
出陣を控えた夫ウルフを背後から抱きしめるイザベラの指先は、微かに震えていた。挙式から日は浅いが、二人の情愛は婚約期間、王宮の奥底で密かに重ねられた夜々にまで遡る。
当時のウルフは、フランの過酷な調練と一族の重圧に晒され、その繊細な魂が摩耗しきっていた。周囲が彼を「メルクニアの弱点」と軽んじる中で、イザベラだけは彼の誠実さと、内に秘めた静かな闘志を見出したのである。彼女は王女としての権限を振るい、彼を自らの守護騎士として側に置くことで、一族の荒波から救い出し、一人の男として、そして比類なき武人として磨き上げた。
「ウルフ……。お腹の中に、小さな鼓動を感じるのです。あの日から、私の中で何かが変わり始めました」
ウルフはその言葉に目を見開いた。挙式の日取りから逆算すれば早すぎるが、二人が魂を交わし、互いを唯一無二の拠り所としてきた歳月を思えば、それは疑いようのない天啓であった。
「……イザベラ。あなたは、俺にどれだけの鎖を巻き付ければ気が済むんだ」
ウルフは自嘲気味に笑いながらも、その瞳には父親としての、そして愛する女を守る守護者としての苛烈な光が宿った。
「死なせません。私のためにも、この子の将来のためにも。……あなたは、フラン様が命を懸けて繋いだメルクニアの血を、王室へと繋ぐ義務があるのです。あなたが無事に帰ること。それが私の、王女としての、そして妻としての唯一の命です」
イザベラの執着は、今や慈愛を孕んだ鋼の盾となり、ウルフを死地から呼び戻す最強の呪呪となっていた。
一方、第二王女エレナと末子マリスの別れは、より清廉で、しかし悲痛なものだった。
「マリス様、この守り袋には私の髪を編み込みました。あなたが戦場で孤独を感じた時、どうかこれに触れてください」
エレナの涙を拭い、マリスは静かに頷く。
「エレナ、僕はあなたに相応しい男になると誓いました。フラン兄さんが僕に見せてくれたのは、理不尽な強さではなく、家族を守るための覚悟だった。僕は必ず戻り、あなたを生涯守り抜きます」
二人の純粋な想いは、泥沼のような権謀術数渦巻くアーシア王宮において、唯一の救いのように輝いていた。
別邸の最奥。当主エジルの居室には、三人の女性が集まっていた。
そこには若者たちのような情熱の迸りはない。あるのは、長年メルクニアという「戦う怪物の一族」を支え、共に流浪の果てにたどり着いた、静謐で重厚な覚悟であった。
上座に座るのは、正妻のセシル。
長男カルムから三男クリスまで、一族の根幹を成す三兄を産んだ、誇り高き女性である。
「旦那様。カルムもライルもクリスも、命を繋ぎました。あの子たちの妻たちも、よく耐えております。……ですが、あの子たちが守られた代わりに、フランが残った。あの子にばかり、損な役回りを押し付けてしまいましたね」
セシルの言葉に、傍らの第二夫人カリンが短く息を吐いた。
彼女は血気盛んな五男エルムと七男ガインの母である。彼女自身も武家の出身であり、その気性は息子たちに色濃く受け継がれている。
「フランがあの子たちを逃がしたのは、合理的な判断でしょう。……ですが、あの子たちはそれを『負い目』として背負って生きていくことになります。エジル様、どうか五男と七男を、その呪縛から解き放ってやってください」
そして、少し離れた場所に控えるのは、側室のリーナ。
六男ウルフと八男マリスの母だ。
「ウルフにはイザベラ様が、マリス様にはエレナ様がついておられます。……あの子たちは、もう大丈夫です。エジル様、あなたはただ、あの子たちの父として、前を歩いてください。私たち三人は、ここで一族の家を守り続けます」
三人の妻たちは、それぞれに産んだ息子たちの性質を知り尽くし、それを支える嫁たちの強さも信じていた。
だが、この場にフランの母はいない。
私生児として一族に迎えられたフラン。その母が誰であるか、一族の誰もが触れることを禁じられていた。フランだけが、この強固な血の繋がりの中で、常に孤独な観測者であり続けたのだ。
エジルは三人の妻を一人ずつ見据え、重々しく頷いた。
「……フランが一人で背負ってきたものは、あまりに重すぎた。私はあいつをアイアン・ピークに遠ざけることで、一族から切り離したつもりでいた。……だが、あいつの方が、一族をその腕で抱えていたのだな」
エジルの言葉に、居室は深い沈黙に包まれた。
正妻の子、第二夫人の子、側室の子。そのすべてを等しく守り抜き、一人で帝国の闇へと消えた四男。彼が守ったのは、単なる兄弟の命ではなく、この部屋に集う女たちの安寧そのものであった。
夜明け。王都の門が、地響きのような音を立てて開いた。
先頭を行くのは、漆黒の甲冑を纏ったエジル。その後ろには、巨大な斧を担いだエルム、鋭いレイピアを帯びたガイン、覚悟に満ちたウルフ、そして若き守護者マリス。
彼らが率いるのは、アムルの時代からエジルに従う、忠義の化身たる五千の私兵団。一糸乱れぬ行軍、五千の蹄の音は、王都の民に「メルクニア健在」を告げる鼓動であった。
城壁の上からは、二人の王女と、上位三兄の妻たち、そしてエジルの妻たちが、それぞれの想いを胸にその背中を見送っていた。
ユヌベクス王は高みからその光景を眺め、冷徹に微笑む。
「美しいな。愛と誇りが、これほどまでに強固な盾を作るとは。……メルクニア、お前たちの血は、もう二度とこのアーシアから離れることはできない」
北の空には、不気味な雷雲が渦巻いている。
アイアン・ピークまでの道程は、血と鉄にまみれた修羅の道。
だが、彼らはもはや「負け犬の降将」ではない。
愛する者を背負い、家族の絆を刃に変えた、アーシア最強の「鋼」であった。




