断崖の残火
東の空が、血の混じったような薄紅色に染まり始めた。
アイアン・ピークの断崖に築かれた急造の陣地。その防壁の向こう側で、地響きのような重低音が鳴り響く。ゼノス帝国「鋼鉄卿」による、夜明けの総攻撃の合図だった。
「……クリス兄上。予定通り、カルム兄上とライル兄上を連れて、西の枯れ谷を抜けろ。そこだけは、昨夜のうちに私が伏兵に見せかけた囮を配し、敵の包囲網に一瞬の『淀み』を作ってある」
フランは、地図を焼き捨てながら、淡々と、だが一切の反論を許さない温度で告げた。その瞳は、徹夜の疲労を感じさせないほどに澄み渡り、かつてないほど鋭い「計算」の光を宿していた。
「……馬鹿を言うな、フラン! お前一人を残して、我らだけが逃げおおせると本気で思っているのか! メルクニアの武が、弟一人を見捨てて生き延びるなど……!」
三男クリスが、折れた剣を握りしめて激昂する。だが、フランはその熱い言葉を、冷徹な一言で切り捨てた。
「……非効率だ。今の兄上に、私を背負って戦う余力はない。……そして、カルム兄上とライル兄上を王都へ生還させなければ、メルクニアの『武』は今日ここで完全に絶たれる。……兄上たちの誇りを守るために、一族の種を絶やすコストを支払えというのか?」
フランの言葉は、以前のような突き放す毒ではなく、残酷なまでに正しい「生存の数式」だった。彼は、動けない兄たちを守るために、自らの命を「時間という名の資源」に変換しようとしていた。
「……三秒。……その決断に迷う三秒で、逃走経路の生存率は5%低下する。……行け、クリス兄上。……これは、父上が私に命じた『隔離』という試練の、私なりの回答だ」
フランは初めて、クリスの瞳を真っ向から、静かに見据えた。
そこには、かつての無機質な人形のような虚無感はなかった。代わりに宿っていたのは、家族の未来という巨大な重みを独りで背負う、「一人の男」としての凄絶な覚悟だった。
「……分かった。……必ず、迎えに来る。死ぬなよ、フラン。……お前がいないと、マリスたちのあの騒がしい食卓が、完成しないんだからな……!」
クリスは歯を食いしばり、重傷のカルムとライルを馬車へ押し込むと、霧の立ち込める西の谷へと馬を飛ばした。
直後、陣地の正面が凄まじい衝撃と共に粉砕された。
土煙の中から現れたのは、黄金の双頭鷲を掲げた帝国の重装騎兵。そして、その中央に鎮座する、不動の山のような圧を放つ男――鋼鉄卿であった。
「……ほう。三人の兄を逃がし、自ら殿に立つか。メルクニアの四男フラン、貴公の知略は、最後に『自己犠牲』という最も計算に合わない選択をしたわけだ」
鋼鉄卿の低く、地を這うような声が響く。周囲はすでに数千の帝国兵に包囲され、フランの背後には深い断崖しかない。絶体絶命という言葉すら生ぬるい、完全なる死地。
「……自己犠牲、ではありません。……これも計算のうちです。……王都の弟たちが成長するまでの時間を稼ぐ。その対価として、私の身柄を差し出すのは、極めて妥当な投資だ」
フランは、血に汚れた細い剣を抜き放ち、初めて鋼鉄卿に向かって正対した。
彼の背後で、あらかじめ仕掛けていた大量の火薬が爆発し、兄たちが逃げた西の谷への道を巨大な落石で封鎖する。
「……退路を断ったか。……面白い。貴公のその『未完の知略』、私が直接、その終わりを見届けてやろう」
鋼鉄卿の大剣が、空気を引き裂いて振り下ろされる。
フランは、その圧倒的な暴力の渦中に身を投じた。
数分後。
アイアン・ピークの砦は陥落した。
だが、そこには一人の死体も転がってはいなかった。残されていたのは、ただ、鋼鉄卿の前に膝をつきながらも、決してその冷徹な意志を折っていない、満身創痍の四男フランの姿だけであった。
「……殺さぬのか?」
フランが、口端から血を流しながら問いかける。
「……殺すには、惜しすぎる。……貴公という『毒』が、王国の次世代にどのような変革をもたらすか。……捕縛しろ。この男は、帝国の賓客として丁重に扱う」
フランは、意識が闇に落ちる直前、遠く西の空を仰いだ。
兄たちは、逃げ切った。
そして、自分が蒔いたこの「敗北」という名の種が、王都の弟たちの中でどう芽吹くのか。
(……あとは、頼んだぞ。……ウルフ、マリス)
四男フラン、捕縛。
メルクニア一族の歯車は、誰もが予想し得なかった「最悪」の形で、次なる局面へと動き始めた。




