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メルクニア戦記  作者: 風花
第一章
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滲んだ体温

 アイアン・ピークの断崖に築かれた、急造の防衛陣地。

 夜明け前の最も深い闇の中、フランは凍てつく岩肌に背を預け、自身の指先をじっと見つめていた。

 指紋の隙間にこびりついた返り血が、夜気にさらされて黒く強張っている。その冷たさは、かつて「無機質な怪物」と呼ばれた彼の心そのもののようだった。

(……計算が、狂った)

 フランの脳裏を、数時間前の地獄がよぎる。


 隔離されていた自分を救うため、軍規を犯してまで駆けつけた三人の兄たち。彼らが現れた瞬間、フランの脳内にある「勝利への数式」は、ノイズ混じりの不純物に侵食された。

 本来の彼ならば、深手を負った長男カルムを即座に「放棄すべき損耗」として切り捨て、その隙に敵の本陣を焼く策を選んだはずだ。次男ライルが矢面に立った時も、それを利用して包囲網を脱出するのが、フランという男の「正解」だった。

 だが、彼はできなかった。

 盾が砕け、血を吐きながらも自分を背後に庇おうとした兄たちの、あの馬鹿げたほどに熱い背中を見た瞬間に。


「……非効率だ。あまりに、コストが高すぎる」

 独り言ちたフランの声が、白い吐息となって闇に消える。

 今、彼の傍らでは、意識を失ったカルムが浅い呼吸を繰り返し、ライルが苦悶の声を押し殺して横たわっている。三男クリスは、折れた剣を杖代わりに、防壁の向こう側で敵の気配を睨み続けていた。


 かつてのフランなら、この状況を「詰み」と断じ、自らの生存確率を最大化する道を選んでいただろう。しかし、今の彼の胸の奥には、計算機では弾き出せない奇妙な「重み」が沈殿していた。

 それは、ボスコ渓谷で父エジルに言い渡された「隔離」の意味――「一族が守るべき『情』の違いを、一人で咀嚼してこい」という言葉の、遅効性の毒のような回答だった。


(……父上の仰った通りだ。私は、この『熱』の扱い方を知らない)

 フランは、震える手で懐から一通の書状を取り出した。それは隔離される際、誰にも見られぬよう荷物の底に忍ばせていた、弟たちからの他愛もない激励の言葉が綴られた紙片だった。

 あの演習で踏みにじったはずのウルフやマリスたちが、それでも「兄上、お気をつけて」と記した、愚かで、尊い紙。

 フランの瞳に、わずかな、本当にわずかな「揺らぎ」が宿る。

 それは、冷徹な軍師としての死を意味するのかもしれない。だが、今の彼は、その揺らぎさえも戦術の盤面に組み込もうとしていた。


「……クリス兄上」

 フランが立ち上がり、闇の中から三男に声をかけた。その声は依然として無機質だったが、そこには以前のような「突き放す冷たさ」ではなく、隣に立つ者を支えるための「静かな熱」が宿っていた。

「……夜明けと共に、鋼鉄卿が来る。……私の残りの全知略を、兄上たちを生かして王都へ帰すためだけに使い果たす。……それには、兄上の『誇り』を少しだけ泥に染めてもらう必要があるが、構わないか?」

 振り返ったクリスは、絶望的な状況下で、四男の瞳の奥に初めて「人間」の灯火を見た気がした。

「……ああ、フラン。お前のその薄汚い策に乗ってやる。……生きて帰らねば、マリスたちのあの笑い顔を、二度と守れんからな」

 フランは、滲んだ血のついた指で、再び地図をなぞった。


 メンタル。精神。情緒。

 かつて彼が「不純物」として排除してきたそれらが、今、絶体絶命の盤面を動かす最後の「燃料」へと変わりつつあった。


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