陽だまりの春
木漏れ日が柔らかく降り注ぐ、宿舎の裏庭。八男マリスは、先ほどから自分の掌をじっと見つめていた。そこには、つい数分前まで、第二王女エレナの温かく柔らかな指先が触れていた感触が、鮮明に残っている。
「……僕、どうしちゃったんだろう。胸の奥が、ずっとふわふわして……」
手元の籠には、彼女が一生懸命焼いてくれたというクッキー。不格好な形の一つ一つが、彼女の純粋な好意そのものに見えて、マリスは口にするのを躊躇うほどに胸を熱くしていた。
兄たちの背中を追い、戦場こそが男の生きる場所だと信じて疑わなかったマリスにとって、エレナがもたらした「安らぎ」という名の猛攻は、どんな剛剣よりも深く、彼の心根を射抜いていた。
「……マリス様? あの、そんなにじっと見つめられると、恥ずかしくなってしまいますわ」
生垣の陰から、再び可憐な声が響いた。驚いて顔を上げると、そこには護衛を撒いてきたのであろう、少しだけ息を弾ませたエレナが立っていた。彼女は悪戯っぽく微笑むと、マリスの手を今度はしっかりと握り締めた。
「もしよろしければ……このまま、少しだけ王都の街を歩きませんか? 私、マリス様ともっと、お話ししたいのです」
「えっ……デ、デート、ですか!?」
「で、デート……? そう呼ぶのでしたら、きっと、そうですわね」
エレナは頬を林檎のように赤らめ、小さく頷いた。その「破壊的な可愛らしさ」を前に、マリスの返事は一つしかなかった。
*****
王都の目抜き通り。色とりどりの花が飾られた露店が立ち並び、噴水の前では吟遊詩人が愛の歌を奏でている。
マリスは、隣を歩くエレナの存在感に、終始しどろもどろであった。
「見てください、マリス様! あの髪飾り、とっても素敵!」
「えっ、あ、本当だ。エレナ殿下なら、きっとお似合いになります」
「まあ……嬉しい。マリス様が選んでくださるなら、私、一生の宝物にしますわ」
エレナは屈託のない笑顔でマリスを見上げる。彼女の瞳には、打算も、王家としての冷徹な思惑も微塵も感じられない。ただ、目の前の少年と一緒にいられることが嬉しくてたまらない、という純真さが溢れていた。
マリスもまた、当初の緊張はどこへやら、彼女の楽しそうな様子に、いつしか自分でも驚くほどの笑みを浮かべていた。
「殿下、あっちに美味しそうな焼き菓子のお店がありますよ。……あ、転ばないように気をつけて」
マリスは、ごく自然にエレナの腰を支えるように手を添えた。メルクニアの男としての本能が、愛おしい女性を守るべき存在として認識し、無意識のうちに作動したのだ。
「……ありがとう、マリス様。あなたって、本当に優しいのね」
エレナはマリスの肩にそっと頭を預けた。王都の往来のど真ん中、二人の周りだけが、まるで時間が止まったような、甘い陽だまりに包まれていた。
だが、その背後の曲がり角。
殺気に近い熱量を放ちながら、二人の背中を凝視する影があった。
「……見たか、ガイン。あいつ、殿下の腰に手を回したぞ。あの、泣き虫のマリスがだぞ」
五男エルムが、壁の角を素手でミシミシと削りながら呻いていた。その目は血走り、嫉妬で全身の筋肉が爆発せんばかりに膨張している。
「おい、エルム。見苦しいぞ。お前がそんな顔で見てたら、デートじゃなくて暗殺の下見だ」
七男のガインは、呆れ果てた様子で隣に立っていた。
「うるせえ! 俺の方がよほど、あの殿下をお守りするに相応しい体躯をしているはずだ! なぜ俺には、あんな可愛い子が言い寄ってこねえんだ! 運命が間違ってる! 世界がバグってやがるッ!」
エルムは怒りに任せて、持っていた杖をバキリと二つに折った。その直情的な様子を冷めた目で見ながら、ガインは心の内で鋭く突っ込んだ。
(……いやいや、その『俺を見ろ』と言わんばかりの暑苦しさと、美女を獲物か何かと勘違いしている野蛮な目つきが、王女様たちが寄ってこない最大の原因だってことに、いい加減気づけよ)
ガインの正論が届くはずもなく、エルムは「マリスの野郎、帰ったら絶対に逆さ吊りだ……」と呪文のように唱え続けていた。
一方、宿舎の執務室では、父エジルが報告を受け、窓の外を見つめていた。その脳裏には、北方の地で冷徹に盤面を操る四男フランの言葉が反芻されていた。
『父上、マリスの純真さは最大の武器です。王室という巨大な機構に食い込むには、鋭い刃だけでなく、内側から溶かす毒が必要なのです。末弟が王女の可憐さに絆されるのは、我が一族が王都の深層へと根を張るための、最も確実な布石となるでしょう』
フランなら、おそらくこのように言うだろう。兄弟たちが恋に溺れ、あるいは嫉妬に狂うその様さえも、一族の生存と繁栄という巨大な天秤の上では、一つの「事象」に過ぎないのだ。
夕暮れ時。宿舎の門の前までマリスを送り届けたエレナは、別れを惜しむようにマリスの指先をそっと握った。
「今日は本当に楽しかったですわ、マリス様。……また、お会いしてくださいますか?」
「もちろんです、エレナ殿下。僕も……こんなに楽しい一日は初めてでした」
二人が見つめ合う、あまりにも絵になる光景。
だが、エレナの馬車が角を曲がった瞬間、宿舎の影から「本物の獣」が飛び出してきた。
「……マリス! さあ、地獄の反省会の時間だ。たっぷり、みっちり、なァッ!」
エルムがマリスの首筋に極太の腕を回し、強烈なヘッドロックを極める。
「あががっ! 兄さん、苦しい! 助けて!」
「うるせえ! お前の手を今すぐ聖水で清めてやる! その幸せそうなツラを、俺の嫉妬で塗り潰してやるぞぉッ!」
マリスの悲鳴が王都の夜空に響き渡る。
ウルフが「王の愛着」を力に変え、マリスが「王女の慈しみ」にその身を委ねていく。
メルクニアの一族にとって、王都での日々は、王家の情愛という名の深き潮流に飲み込まれ、一族の在り方が根底から塗り替えられていく、波乱の幕開けとなったのである。




