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メルクニア戦記  作者: 風花
第一章
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覚醒する猟犬

 婚約の儀から数日が経過した。王宮の離宮『月鏡宮』で過ごす夜を重ねるたび、ウルフの心境は劇的な変節を遂げていた。

 当初、彼は自分を一族を救うための「生贄」だと考えていた。しかし、薄衣を纏い、月光の下で自分に縋り付くイザベラの瞳は、傲慢な王女のそれではなく、ただ一人の男の愛を渇望する一途な少女の輝きを帯びていた。

「……ウルフ、あなたは私を『王女』としてではなく、『イザベラ』として見てくれる唯一の人よ」

 震える指先で自分の頬に触れ、壊れ物を扱うように大切に抱きしめてくる彼女。その献身的なまでの熱情に触れるうち、ウルフの胸の奥には、これまで知らなかった温かな痛みが芽生えていた。

(……この人は、私がいなければ壊れてしまうのかもしれない)

 一族のためという義務感は、いつしか「この愛おしい女性を、誰の手にも渡したくない」という、静かで深い独占欲へと昇華されていた。

 そんな中、王都北軍練兵場では、近衛騎士団による軍事演習が執り行われようとしていた。


「……あれが、例の『メルクニアの六男』か。噂に違わぬ、繊細な面立ちだな」

 近衛騎士団長代理、フェルナンドが、鞘から抜いたばかりの重厚な模擬剣を肩に担ぎ、鼻で笑った。彼は王都の名門貴族の嫡男であり、洗練された剣技を誇るエリートである。

「王女殿下の傍らに侍るには上等だろうが、ここは戦士の庭だ。……おい、若君。少しは『男』らしいところを見せてみろ。それとも、美しいだけの飾りとして一生を終えるつもりか?」

 フェルナンドの合図とともに、三人の精鋭騎士がウルフを取り囲むように進み出た。演習という名目だが、実態は「王女の寵愛を一身に受ける田舎者」への、嫉妬に満ちた公開処刑であった。

 ウルフは、兜の隙間から冷ややかに相手を見据えた。

 以前の彼なら、ここで剣を抜くことに深い躊躇ためらいを感じたはずだ。だが、今の彼の瞳には、愛おしい女性の「誇り」を守るという、明確な意志が宿っている。

(……この男たちは、私を求めてくれたイザベラを侮っている。私を愛した彼女の眼差しを、曇らせようとしている)

 自分を信じ、心まで預けてくれた彼女を、一時の嘲笑の的にさせるわけにはいかない。その決意が、ウルフの血筋に眠る「獣」を呼び覚ました。

「……始めましょう。お望みの通りに」

 ウルフの声は低く、そして澄んでいた。

 彼が愛剣を抜き放った瞬間、練兵場の空気が一変した。メルクニアの血筋に眠る、戦場を支配する「気」が、王都の洗練された空気を暴力的に掻き消した。

「死ねッ!」

 先陣を切った大男の騎士が、力任せに大剣を振り下ろす。

 だが、ウルフの姿はそこになかった。

 

 一瞬。

 ウルフは最小限の動きで剣筋をかわすと、流れるような動作で相手の懐に潜り込み、柄頭つかがしらで鎧の隙間を正確に強打した。

「がはっ……!?」

 大男が崩れ落ちる。それを合図に、残る二人が左右から襲いかかったが、ウルフの動きはもはや人智を超えていた。

 旋風のように舞い、相手の剣を自身の刃の腹で滑らかに受け流すと、その勢いを利用して相手同士を衝突させる。転倒し、無防備に晒された騎士の首筋に、ウルフの剣先が吸い込まれるように突き立てられた。

「な……んだと……!?」

 フェルナンドの顔から余裕が消えた。

 メルクニアの中では「戦士として未熟」とされ、兄たちに叱咤され続けてきた六男。しかし、それは「怪物の家系」という異常な基準での話だ。王都のエリート騎士たちにとって、その「最弱」さえもが、到底抗いようのない天災のような暴力の塊であった。

「……次は、貴方の番だ。フェルナンド殿」

 ウルフは静かに剣を構え直した。その瞳は、もはや怯える少年のものではない。

 天幕でそれを見守るイザベラが、感極まったように立ち上がった。彼女の瞳には、自分が注いだ愛情を糧にして、一人の青年が「真の王者の風格」を纏っていく様への、恍惚とした悦びが溢れている。

「それでこそ、私のウルフ……! さあ、世界に示しなさい。私が見出したその力が、どれほど気高く、誰にも侵し得ぬものであるかを……!」

 王女の気高くも切実な声が、練兵場に響き渡った。その言葉はウルフの五感をさらに研ぎ澄ませた。

 フェルナンドが咆哮し、王都随一と言われる剣技で猛攻を仕掛ける。だが、ウルフはそれを片手で、それも鼻歌でも歌うかのような余裕で受け流した。

「……メルクニアを、そして私の愛おしい女性を侮った罪は重い」

 ウルフの剣が、一筋の閃光となった。

 一撃。フェルナンドの剣が根元から派手にへし折れる。

 二撃。防戦一方となったフェルナンドの胸当てが砕け、彼は数メートル後ろの石壁まで吹き飛んで、沈黙した。

 演習が終わると、イザベラは壇上から駆け下り、誰の目も憚らず砂塗れのウルフの首に抱きついた。

「見事だったわ、ウルフ。……ああ、この鼓動こそが私の誇り」

 ウルフは、荒い呼吸を整えながら、愛おしさを込めて彼女の細い腰を引き寄せた。

「……殿下、貴女を汚す者は、私がすべて退けます」

 以前は王女からの抱擁に当惑していた彼が、今は慈しむように彼女を抱き返し、その香りを深く吸い込んでいる。


 その光景を、観覧席の端で見ていた五男エルムは、白くなるまで拳を握りしめていた。

「……あいつ、あんな剣が振れたのかよ」

 エルムの胸を焼くのは、単純な嫉妬だけではない。

 自分たちが「守らなければならない」と思っていた繊細な弟が、自分たちの知らない「愛」によって、自分たちが到達しえなかった境地へと駆け上がっていくことへの、形容しがたい焦燥。

 背後では、父エジルが満足げに鼻を鳴らしている。

(……フランよ、見ているか。ウルフはもはや、王女の愛を力に変え、王都を飲み込むための『一族の牙』へと変貌したぞ)

 ウルフの覚醒。それはメルクニア一族を、単なる降将の家系から、王都の秩序を塗り替える「支配者候補」へと押し上げる、決定的な一打となったのである。


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