帰還の朝
王都の朝霧が立ち込める中、宿舎の門を叩いたのは、王家の紋章が刻まれた豪奢な馬車であった。降り立った六男ウルフの足取りは、どこか浮ついており、昨夜の甘美な余韻を隠しきれていない。
宿舎の食堂では、一晩中一睡もせずに待ち構えていた兄弟たちが、獲物を狙う獣のような殺気を放っていた。
「……帰ってきたか、ウルフ」
地を這うような低い声。五男のエルムが、丸太のような腕を組み、立ち上がった。その背後では七男のガインが不機嫌そうにナイフを弄び、末弟のマリスは兄たちの気圧され、隅の方で小さくなって震えていた。
「兄さん……おはよう。その、昨夜は……」
ウルフが言葉を濁し、気まずそうに目を伏せた瞬間。エルムの野性的な嗅覚が、ウルフの首筋に刻まれた鮮やかな紅い「印」を捉えた。
「その首筋は何だ、ウルフッ!」
エルムの咆哮が、食堂の窓をガタガタと震わせた。彼は一歩で間を詰めると、ウルフの襟首を掴んで強引に引き寄せた。
「王女殿下に……喰われたのか!? 貴様、俺たちがこんな埃っぽい宿舎で硬いパンを齧っている間に、あんな極上の美女と睦み合っていたというのか!」
エルムの怒りに、一族の誇りや騎士道の精神など微塵もなかった。
彼はただ、自分が手に入れたくても届かない「王女」という最上級の獲物を、自分より弱いはずの弟が独占し、あまつさえ「男」として完成された顔で帰ってきたことが、我慢ならなかったのだ。
「ふざけるな! なぜ貴様なんだ! 腕っぷしも、体格も、俺の方がよほど……っ! あの女、目が高いのか低いのか分からねえな!」
エルムの嫉妬は、もはや醜悪なまでの本能だった。彼は弟の無事を喜ぶどころか、自分に靡かない運命と、幸運を掴んだ弟への八つ当たりで顔を真っ赤に染めている。
「よせ、エルム。見苦しいぞ」
食堂の奥から、重厚な声が響いた。父エジルである。
エジルは、騒ぎ立てる息子たちを冷徹な一瞥で制し、ウルフの前に立った。彼は息子の首筋の印をじっと見つめ、それからその瞳の奥を覗き込んだ。
(……ウルフが王女の情愛に染まる。これは「計算」だ。ユヌベクス王は、この絆を楔として我らを縛るつもりだろう)
エジルの脳裏に、ふと、これまで一族の知略を一手に引き受けていたフランの無機質な声が響いた。
『父上、感情は数値化できませんが、利害は明確です。ウルフが王女の心を手に入れることは、王都の心臓部にメルクニアの毒を流し込むことに等しい。彼が溺れれば溺れるほど、王家という檻の鍵は、我々の手の中に移るのです』
理詰めで情愛を切り捨てる、冷徹な四男ならそう断じるだろう。エジルは心の中でフランの影に頷いた。ウルフが王女を愛そうが、愛されようが構わない。その結果、メルクニアが王宮の中枢に「不可欠な存在」として根を張るなら、それは一族の生存という絶対的な勝利への道筋となる。
「……ウルフ。お前は、お前の道を行け。それがたとえ、王女の腕という名の甘美な檻であってもな」
「父上……」
ウルフが救われたような表情を見せたその時、食堂の入り口に王宮の侍従が姿を現した。
「失礼いたします。エレナ王女殿下より、マリス様へ、お贈り物とお手紙を預かって参りました」
一瞬、食堂が凍りついた。
名前を呼ばれたマリスは、「ひっ」と短い悲鳴を上げて椅子から転げ落ちそうになった。
「ま、またかよ……。ただ庭で剣の素振りをしていただけなのに……」
侍従が差し出したのは、薔薇の香りが漂う華やかな小箱。エルムが、ひったくるようにしてその手紙を奪い取り、勝手に読み上げた。
「『昨日のあなたの、少し不器用で真っ直ぐな瞳に、真の勇気を見ました。今度、王宮の温室で、二人きりで……』だとぉ!? ふざけるな、マリス! 貴様のような泣き虫のどこがいいんだ! どいつもこいつも、なぜ俺を無視して……!」
エルムの嫉妬が爆発し、食堂は阿鼻叫喚の渦へと叩き込まれた。
マリスは半泣きで逃げ惑い、エルムは「俺にその手紙を回せ!」と支離滅裂な咆哮を上げる。ガインは「王家の女どもは、メルクニアの男を食い尽くすつもりか!」と頭を抱える。
その喧騒の中、父エジルだけは、再びフランの冷徹な言葉を反芻していた。
『八男までが取り込まれるなら、それはもはや「包囲網」ではなく「癒着」です。王家は、我々の武力を恐れるあまり、自分たちの血の中に混ぜ込んで無力化しようとしている。……ならば、その血をメルクニアの色に染め替えてしまえばいい。父上、これは戦争の新たな形ですよ』
エジルは静かに目を閉じた。
嫉妬に狂う五男、翻弄される六男と八男。
メルクニアの一族を巡る運命は、王女たちの情熱という名の「侵略」によって、もはや後戻りできない領域へと加速していく。
「……マリス。逃げるな。王女の熱意を、一族の糧とせよ」
エジルの冷徹な命令が、マリスの絶望の叫びをかき消した。
王都の朝陽は、欲望と策略、そして歪な愛憎にまみれた「獅子の家族」の姿を、残酷なほど鮮やかに照らし出していた。




