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メルクニア戦記  作者: 風花
第一章
18/44

盤上の猟犬

 王都の夜は更け、宮殿の執務室には、ただ蝋燭が爆ぜる音だけが静かに響いていた。

 国王ユヌベクスは、一人、肘掛け椅子に深く身を沈め、手元にある羊皮紙をじっと見つめていた。そこには、王国の辺境を長年守り続けてきたメルクニア一族の、家系図と詳細な能力記が記されている。


「……メルクニアの六男、ウルフ。一族の中では、常に兄たちに叱咤され、その背を追う存在。武勇を誇る兄弟たちに比べれば、確かにその剣筋は繊細に過ぎ、性格も穏やかだが……」

 ユヌベクスは、目を細めて独り言ちた。その声に敵意はない。むしろ、そこにあるのは、極上の宝石の原石を眺めるような、深い関心と期待であった。

「……これこそが、我がアーシアが求めていた『楔』だ。あの化け物じみたメルクニアの野性を引き継ぎながら、王都の洗練を受け入れうる柔軟さを併せ持っている。一族で最弱と言われようと、彼一人の戦力は我が近衛騎士団の精鋭数人に匹敵する。これほどの男を、ただの『予備の息子』として辺境で朽ちさせておくのは、国家の損失以外の何物でもない」

 ユヌベクスにとって、長女イザベラの突然の「略奪」は、当初こそ王家の品位を揺るがす驚きであったが、今やそれは「天が与えた千載一遇の好機」へと昇華されていた。

 彼が狙っているのは、メルクニアの殲滅ではない。その逆だ。

 メルクニアという強大すぎる牙を、王家の不可分な体の一部として完全に取り込むこと。


 第一に、「血の結束による、不変の忠誠の確保」である。

 メルクニアの一族は、良くも悪くも身内を神聖視する。その一族の至宝であり、兄たちが「俺たちが守らねば」と過保護なまでに慈しんできた六男ウルフが、王女の夫となり、将来的に王家の血を引く子を成せば、メルクニアはもはや単なる「従属する臣下」ではなくなる。彼らは、自分たちの血筋を守るために、文字通りアーシア国の「最強の盾」として、未来永劫機能し続けることになるのだ。


 そして、ユヌベクスの唇に、さらなる深謀遠慮を感じさせる笑みが浮かんだ。

 彼の視線は、家系図のさらに下――八男マリスの名へと移る。

「……加えて、次女のエレナまでが、あの末弟のマリスを追い回しているというではないか」

 ユヌベクスは、愉快そうに肩を揺らした。

 次女エレナは、姉のイザベラほど苛烈ではないが、一度言い出したら聞かない頑固さは王家の血そのものだ。彼女は、まだ幼さの残るマリスの、純粋で真っ直ぐな気性に強く惹かれ、事あるごとに言葉をかけ、その周囲をうろついているという。

「イザベラが六男を、エレナが八男を……。ふふ、メルクニアの親父殿、エジルよ。貴公がどれほど身内を囲い込もうとしても、我が娘たちの熱情からは逃げられぬようだな。もし八男までもが我が王家に降るならば、もはやメルクニアは王家の『半身』も同然だ」

 ユヌベクスにとって、これは二重の保険であった。


 ウルフが王都の暮らしに馴染み、イザベラの情愛に絆されることは、一族への裏切りではない。それは、メルクニアが新しい時代、即ち『王の剣』としての真の姿へ脱皮するための儀式なのだ。

 ユヌベクスは、手元のチェスの駒――白く美しい二騎の騎士ナイトを手に取り、盤上のキングを左右から守るように置いた。

 一人は、昨夜、王女の腕の中で覚醒への一歩を踏み出したウルフ。そしてもう一人は、次女の攻勢にたじろぎながらも、いずれ王家を支える柱となるであろうマリスだ。

「……イザベラのあの、真っ直ぐすぎる執着。そしてエレナの、静かだが揺るぎない恋心。あれらは、正しく使えばメルクニアの野性を飼い慣らし、かつてない忠義を引き出す糧となる」


 国王は、暗がりの向こう側に控える密偵に対し、静かに、しかし威厳を持って命じた。

「……月鏡宮の様子を注視せよ。そして、次女エレナと八男マリスの距離も、逐一報告せよ。ただし、どちらも邪魔はするな。彼らが自分から『守りたい』と願う家族を見出す瞬間を待つのだ」

 窓の外、王都を優しく照らす月明かりは、二つの恋の行方を見守るように輝いていた。

 ウルフが王女の腕の中で、戸惑いながらも新しい絆に身を委ねようとしているその時。そしてマリスが、次女の熱視線に顔を赤らめ、逃げ場を失いつつあるその時。

 国王ユヌベクスは、自らの娘たちの恋心が、メルクニアという巨人を王座の足元へ繋ぎ止めることを、静かに、そして深く確信していたのである。

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