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メルクニア戦記  作者: 風花
第一章
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月下相愛

 王都の夜は、国境の野営地のような静寂を許さない。

 王城の一角、イザベラ王女に与えられた離宮『月鏡宮』の寝所は、焚かれた没薬もつやくの香煙が幾重にも重なり、甘く、重苦しい空気が停滞していた。窓の外では王都の灯りが海のように広がっているが、厚いとばりに仕切られたこの部屋だけは、世界の理から切り離された異界のようであった。

 豪奢な天蓋付きの寝台。その柔らかな絹の上で、ウルフは己の運命が音を立てて崩れていくのを感じていた。

 彼の目の前には、昼間の傲慢な王女の仮面をかなぐり捨て、ただ一人の「少女」として、未知の熱に怯えながらも目を輝かせているイザベラがいた。


「……逃げないで、ウルフ。あなたはもう、私のものだと誓ったでしょう?」

 イザベラの指先が、ウルフの胸元に触れる。その手は、昼間の毅然とした態度とは裏腹に、小刻みに震えていた。彼女の肌は月の光を吸い込んだ真珠のように白く、しかしその下に流れる王家の血は、初めて触れる異性の体温に驚き、沸騰せんばかりに熱を帯びている。

 ウルフは、激しく脈打つ鼓動を抑えることができなかった。

 彼はメルクニアの戦士だ。剣を持ち、泥にまみれて戦う術は身につけてきた。だが、至近距離から注がれる、この「無知ゆえの猛烈な執着」にどう立ち向かえばよいのか教わったことはない。

 イザベラが、戸惑いながらもウルフの胸へとその身を預ける。

 彼女の長い髪が、夜の帳のようにウルフの視界を塞いだ。外の世界も、父エジルの苦渋に満ちた横顔も、粗暴だが自分を愛してくれたエルムやガインの叫びも、すべてはこの漆黒の髪の向こう側に消えていく。

「……っ、王女殿下……手が、震えておいでです」

「黙って。……私を、私だけを見て、ウルフ。これは命令よ……いえ、お願い……」

 それは傲慢な王族の言葉ではなく、初めて恋を知った娘の、切実で不器用な懇願だった。

 彼女の唇が再びウルフのそれを塞ぐ。それは昼間の「略奪の口づけ」とは違い、どこかぎこちなく、しかし一度触れ合えば二度と離れたくないと縋り付くような、必死な熱を孕んでいた。

 ウルフの指先が、無意識に彼女の柔らかな背中を抱きしめた。

 拒絶すべきだ。これは一族を縛る鎖であり、自分はそのための「人質」に過ぎないのだから。そう自分に言い聞かせる理性の壁は、彼女が漏らす熱い吐息と、ぎこちない愛撫のたびに脳を痺れさせる甘美な毒の前に、脆くも瓦解していく。

 イザベラは、自らの装束を脱ぎ捨てる際にも、その頬を林檎のように赤らめていた。

 露わになった彼の鍛えられた肢体に、彼女は驚きと畏怖が混ざったような溜息をつき、その胸元に恐る恐る顔を寄せる。その仕草は、愛という名の儀式であり、同時に未知の領域へと足を踏み入れる開拓者のような危うさを秘めていた。

「……暖かいのね。こんなに、誰かの体温が苦しいなんて知らなかった」

 イザベラの情愛は、経験に基づいたものではなかった。ただひたすらに、本能が命じるままに、愛しい獲物を壊してしまいたいほどの衝動に突き動かされていた。


 初めは「義務」だった。家族を救うための、冷徹な取引だったはずだ。

 しかし、彼女の滑らかな肢体が自分に絡みつき、その純粋すぎて重い熱情を全身に浴びせられるうちに、ウルフの心の中にあった「壁」が、深い沼に沈み込むように消えていく。

 自分を求めて止まない、この圧倒的な熱。

 戦場での殺し合いにも、王都での化かし合いにもない、生身の人間同士が剥き出しで結びつく破壊的なまでの充足感。

 ウルフはいつしか、自分を抱きしめる彼女の細い肩に強く腕を回し、その名を喉の奥で、切ない呻きとともに呼んでいた。

「……イザベラ……っ!」

 その呼びかけに、王女は涙を浮かべながらも、この世で最も尊い宝物を手にしたかのような、眩い笑みを浮かべた。

 彼女は、ウルフの瞳の奥に宿っていた「メルクニアの誇り」が、自分への「愛しさ」へと塗り替えられていく様を、恍惚とした表情で見守っていた。

 ウルフの頭からは、北の地で自分を案じているであろう四男フランのことも、王都の安宿で悔しさに歯噛みしている父たちのことも、次第に遠ざかっていく。

 今、この腕の中にいる、震えながら自分を求める「美しき王女」だけが、彼の世界のすべてになりつつあった。


 夜明けが近づく頃、汗に濡れたままイザベラの胸で眠るウルフの表情には、戦士としての険しさは消え失せていた。

 その姿を、イザベラは愛おしげに、しかし獲物を完全に仕留めた捕食者のような静かな冷徹さを僅かに混ぜて、じっと見つめ続けていた。

「……ねえ、ウルフ。あなたはもう、どこへも行けない。……お父様も、お兄様たちも、あなたを私の腕から連れ出すことはできないわ」

 彼女は、眠るウルフの耳元で密やかに囁き、その首筋を甘く噛んだ。

 一族を救うための生贄として差し出された六男は、いまや王女が用意した、純粋で底なしの情愛という名の淵に、自らの意思で沈み込もうとしていた。


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