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メルクニア戦記  作者: 風花
第一章
16/45

逃げ場無き檻

黄金のシャンデリアが放つ光さえ、その男の影を消し去ることはできなかった。

 広間の喧騒は、まるで冷水を浴びせられた火炎のように、一瞬にして静まり返った。群衆が弾かれたように道を開け、貴族たちが競うように膝を突き、床に額を擦り付ける。その静寂の中を、重厚な革靴の音だけが、等間隔の冷徹なリズムを刻んで近づいてくる。


 現れたのは、アーシア国の頂点、国王ユヌベクスであった。

 その体躯は、戦場を退いて久しい今なお、巨岩のような堅牢さを保っている。白髪の混じった顎髭と、すべてを見透かすような冷淡な灰色の瞳。彼は、まだ顔を朱に染めて立ち尽くす六男ウルフと、その腕を獲物を離さない鷹のように抱きしめている娘イザベラの前で、音もなく足を止めた。

「……騒々しいと思えば、この有様か。イザベラよ」

 ユヌベクスの声は低く、そしてどこまでも平坦であった。感情の起伏が削ぎ落とされたその一言に、広間の気温が数度下がったかのような錯覚を覚える。

 父エジルは、即座にその場に膝を突き、深く頭を垂れた。その背後では、五男エルムと七男ガインが、煮え繰り返るような憤怒を必死に抑え込み、床を見つめたまま岩のように硬直している。彼らの拳は白くなるまで握りしめられ、微かに震えていた。


「国王陛下、申し訳ございませぬ! 我が息子が、王女殿下に対し、万死に値する不敬を――」

 エジルの声には、一族の長としての必死な防衛本能が滲んでいた。だが、その謝罪を、イザベラの無邪気な笑い声が残酷に切り裂いた。

「不敬? 違うわ、お父様。そんなつまらない言葉で片付けないで」

 イザベラは、ウルフの首筋にさらに深く腕を回し、その胸に顔を埋めるようにしてユヌベクスを見上げた。彼女の瞳には、政治的な意図など微塵も感じられない。そこにあるのは、新しい宝石を手に入れた子供のような、純粋で底の知れない好奇心と独占欲だけだった。

「私が、この方を気に入ったの。……いえ、それ以上よ。今、この場にいる全員の前で、私は彼を所有すると決めたわ。国王陛下、お聞きください。このウルフこそが、私の生涯の伴侶――私の婚約者にふさわしい男です」

 広間に、今度はさざ波のような動揺が広がった。

 貴族たちは顔を見合わせ、信じられないものを見たという表情で、まだ唇を震わせているウルフを凝視している。降将の息子。アムルの猟犬。帝都の洗練とは程遠い「野蛮な一族」の若者が、王室の血筋と結ばれるなど、平時であれば失笑ものの戯言だ。

 だが、ユヌベクスは笑わなかった。

 彼は無表情なまま、獲物の品定めをするかのようにウルフをじっと見つめ続けた。その鋭い眼光は、青年の魂の深くまでを抉り、その本質が「折れる木」なのか「しなる鋼」なのかを暴き立てようとしているかのようだった。


「……メルクニアの六男、ウルフよ」

 王の名を呼ぶ声が、重く圧し掛かる。

「お前は、この一途すぎる娘を、その身に受ける覚悟があるか? 王女の情愛は、時に戦場の刃よりも鋭く、お前の自由を、誇りを、そして人生のすべてを縛り上げるぞ」

 ユヌベクスの言葉には、娘の気性を熟知した親としての忠告と、同時にそれを「利用」しようとする支配者としての冷徹さが混在していた。

「え……あ、あの、私は……」

 ウルフは困惑し、救いを求めるように父や兄たちへ視線を送った。

 しかし、視線の先にあったのは、地獄のような光景だった。

 五男のエルムは、今にも叫び出さんばかりに顔を真っ赤にし、その巨躯から漏れ出る殺気が周囲の空気を歪ませている。七男のガインは、腰にあるはずの剣を無意識に探し、虚空を掴む指先が血を流すほど食い込んでいた。

 そして父エジル。彼は、かつて戦場で千の敵に囲まれても屈しなかったその背中を丸め、ただ苦渋に満ちた表情で目を伏せていた。

 ウルフには分かっていた。

 ここで「否」と答えれば、イザベラの面目は潰れ、ユヌベクスは「王女を辱めた」という大義名分を得るだろう。そうなれば、今この瞬間に、メルクニアの一族は反逆者としてこの広間で処刑される。

 自分一人の人生と引き換えに、父と、荒っぽいが愛すべき兄たち、そして北にいる四男フランや幼い弟たちの命を救えるのだとしたら。

 選択肢など、最初から存在しなかったのだ。


「……謹んで、お受けいたします。国王陛下」

 ウルフは、震える声で、しかしはっきりと答えを返した。

 その瞬間、イザベラは「やったわ!」と歓喜の声を上げ、子供のように無邪気に跳ねると、再びウルフの頬に熱い口づけを落とした。彼女の純粋な喜びが、周囲の凍てついた空気とあまりに不気味なコントラストを描き出す。

「よかろう」

 ユヌベクスは、一族の運命を弄ぶかのような、薄く、冷酷な微笑を浮かべた。

「第一王女イザベラと、メルクニアが六男ウルフの婚約を、余がここに認める。……全貴族よ、聞け。今宵、アーシアの月は、アムルの猟犬と結ばれた」

 国王は、さらに一歩踏み出し、膝を突くエジルの耳元で、広間全体に響き渡るような声明とは対照的な、低く鋭い声で囁いた。

「……メルクニア卿。これで貴公の一族と我が王室は、血をもって結ばれた。……貴公が大切に育てた『至宝』は、今この時から、我が娘の檻の中だ。二度と、その牙を我が国に向けることは許さぬぞ。さもなくば、この美しい息子の首が、真っ先に城門を飾ることになる」

 それは祝福などではなく、逃れられぬ呪縛であった。

 拍手の渦が巻き起こる。それは、メルクニアの一族をじわじわと締め上げる絞首刑の喝采のようだった。

 崩れ落ちそうになるウルフを、イザベラが満面の笑みで、しかし万力のような力で支え、勝利の凱歌をあげる。

 一族の誇りであり、誰よりも優しかった六男を、政治の供物として奪われたエルムたちは、ただ敗北の味を噛み締めながら、熱狂する帝都の闇の中に立ち尽くすしかなかった。

「……嬉しいわ、ウルフ。ずっと、私のそばにいてね」

 イザベラの囁きが、ウルフの耳元で甘く、冷たく響くのであった。


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