遠き国境、近き泥濘
アーシア王国の北端、峻険な山脈が連なるアイアン・ピークの麓。そこには、王都の華やかさとは無縁の、剥き出しの「武」が停滞していた。
急造された野営陣地。冷え込む夜気に包まれながら、三人の男が焚き火を囲み、古びた地図を見つめていた。
「……王都の親父殿からは、何と言ってきている」
長男カルムが、焚き火の爆ぜる音に混じって低く問うた。彼は一族の本隊を率い、今もなお国境の「重石」として睨みを利かせている。その眼光は、暗闇の向こう側に潜む帝国の気配を逃さない。
「エルム以下の弟たちが、街で暴れたそうだ。……まあ、売られた喧嘩を物理的に粉砕した、と言うべきだろうが。バルトル家の騎士どもが数人、再起不能らしいぞ」
次男ライルが、手入れの行き届いた愛剣の重みを確かめながら、野卑な笑いを浮かべた。ライルはカルムの右腕として、戦場での汚れ仕事や強行突破を一手に引き受ける。その言動は粗暴で、王都の洗練を鼻で笑うような野蛮さを隠そうともしない。
「……ライル、笑い事ではない。親父殿は今、王都の政界という戦場で、盾も持たずに戦っておられるのだぞ」
三男クリスが、苦々しく口を開いた。彼は兄弟の中で最も道徳と軍紀を重んじる。かつて四男フランと顔を合わせるたびに「貴様には人の心がないのか」と激しく言い合っていたのは、フランの効率主義が、クリスの信じる「高潔な武士道」さえも、生存のための「道具」として冷徹に利用しようとしたからだ。
「……なぁ、クリス。あの廃要塞に送られたフランが言っていたのを覚えているか」
ライルが挑発的に、焚き火の火を弄ぶ。
「あいつは俺たちの血筋を、誰よりも高く評価していた。……だが、俺たちが『魂』だの『誇り』だのと言って命を懸けるものさえ、あいつにとっては、メルクニアを存続させるための『効率的な燃料』に過ぎなかった。……あいつを北のアイゼン要塞へ遠ざけて、せいせいしたか? 今の俺たちは、親父殿を王都の化け物どもに差し出し、こうして極寒の地で番犬をやらされている。結局、あいつが計算した通りの『生き残り方』をなぞっているだけじゃないのか?」
「……黙れ、ライル!」
クリスが激昂し、立ち上がる。
「私は、あいつのあの凍りついた瞳が許せなかった! 一族を存続させるためなら、我々の感情さえも『戦術の一環』として使い潰しても構わないというあの理屈が! ……私は、たとえ非効率であっても、泥を啜ってでも、人が人として足掻く『尊厳』を守りたかったのだ! 親父殿があいつを隔離したのは、あいつに『心』を取り戻させるためだ!」
「……二人とも、そこまでにしろ」
長男カルムの重厚な声が、夜の静寂を切り裂いた。
「親父殿がフランをあの要塞へ送ったのは、あいつが間違っていたからではない。……あいつが提示する『正解』が、我らの血を冷やしすぎるからだ。あいつの掌の上で踊るには、我らはあまりに『人間』すぎた。親父殿は、あいつを捨てたのではない。あいつの『才』がメルクニアを内側から腐らせぬよう、一度、距離を置いて考えさせる時間を与えたのだ」
カルムは、王都から届いた密書を焚き火に投じた。
「……王都では、国王が親父殿と弟たちを晩餐会に招いたという。……あそこは戦場よりも陰湿で、逃げ場のない檻だ。ウルフ、ガイン、マリス……。あいつらが、あの蛇の穴でどこまで持ち堪えられるか」
「……マリスたちが心配か? 兄上」
ライルが皮肉げに口角を上げる。
「……いや。あいつらもメルクニアだ。……ただ、フランならこう言っただろう。『怒りは一撃を重くするが、思考を鈍らせる。そのコストを計算に入れろ』とな。……クリス、お前の言う『誇り』が、王都で高くつきすぎないことを祈るばかりだ」
国境の冷たい風が、三人のマントを揺らす。
王都で泥を被る父と弟たち。国境で牙を研ぐ兄たち。そして、さらに北の廃要塞「アイゼン」で、一人沈黙を守る四男。
バラバラになったメルクニアの歯車が、運命という見えない力によって、再び噛み合おうとしていた。




