狂気の練兵
ボスコ渓谷を吹き抜ける風は、春の訪れを告げるにはあまりに鋭く、演習場の土を白く凍らせていた。
再編が進むメルクニア軍の練兵場。そこには、六男ウルフが率いる中隊と、四男フランが直轄する選抜隊が対峙していた。
六男ウルフは、兄弟の中でもとりわけ線が細く、気が弱い。剣技の型は美しいが、実戦の圧力を前にすると優しさが仇となって判断が鈍る。年下の弟であるガインやマリスも、そんな兄を蔑んでいるわけではない。むしろ、武門の子として父や上の兄たちから叱責される姿を見るたびに、家族として「いつか戦場で死ぬのではないか」という危うさを案じていた。
「……ふ、フラン兄上。演習とはいえ、あまり無理な機動は……。兵たちも疲弊している。これ以上の負荷は、再編の士気に関わるのでは……」
ウルフがおずおずと進言するが、フランは馬上から一瞥もくれない。鉄仮面の奥にある瞳は、実の弟を「守るべき家族」ではなく、ただの「機能不全を起こした部品」として観測していた。
「……ウルフ。戦場において、指揮官の『慈悲』は兵の死を招く最大の不純物だ。……今、この瞬間から、貴様の部隊を敵軍と見なし、殲滅を開始する。死にたくなければ、その脆弱な情緒を捨てて、せめて盾を掲げろ」
フランの無機質な号令と共に、選抜隊が動いた。それは「調練」と呼ぶにはあまりに一方的な蹂躙であった。フランの部隊は、一切の私語も感情の昂りもなく、フランが指し示す「最短の勝利曲線」だけをなぞるように突き進む。
「……ひっ、左翼が抜かれた!? 戻れ! 持ちこたえるんだ!」
ウルフが悲鳴に近い声を上げるが、彼の部隊は既にフランの仕掛けた重圧に呑まれていた。フランは、ウルフが最も恐れる「退路の遮断」を瞬時に実行し、彼を心理的な袋小路へと追い詰め、逃げ場を奪っていく。
「……ウルフ、三秒遅い。……二秒遅い。……次、指示を違えれば、貴様の部隊の右翼を物理的に粉砕する」
フランの指示は、魔法ではない。ただ、人間が極限状態で陥るパニックを計算し、その隙を精密に突いているだけだ。ウルフはついに恐怖に耐えかね、剣を落としてその場にへたり込んだ。
「……もう、無理だ……。フラン兄上、止めてくれ……!」
その光景に、演習場を見守っていた父エジル、長男カルムらの顔が、苦渋と絶望に歪んだ。だが、フランは攻撃を止めなかった。
「……戦場に、戦意を失った者を保護する規律はない」
「……そこまでだ! フラン!」
父エジルの怒号が響いた。エジルは、泥を啜って震える六男と、その弟を一片の情もなく踏みにじろうとした四男の姿を交互に見つめ、激しい戦慄を覚えた。
「……フラン。お前の力は、もはや我らメルクニアが誇るべき『武』ではない。それは人を、心を殺して得られる、ただの数字だ。……お前がそばにいれば、兵たちは敵と戦う前に、お前という毒に魂を削り取られる」
エジルは、震えるウルフを介抱する兄弟たちの姿を背に、重く、断腸の思いを込めて宣告した。
「……フラン。お前をこのまま本隊に置いておくわけにはいかん。お前の異質さは、いずれ軍に決定的な不協和音を生み、メルクニアを内側から崩壊させる。……お前の才は認めるが、今のままでは我々はお前という存在を抱えきれんのだ」
エジルは、フランの無機質な瞳を真っ向から見据えた。
「本日を以て、お前を北方の辺境、ボスコ渓谷の最奥にある廃要塞『アイゼン』の守備を命ずる。……そこで、お前自身のその『計算』の正体と、我ら一族が守るべき『情』の違いを、一人で静かに咀嚼してこい。……これは追放ではない。お前がメルクニアの将として、真に一族と歩むための、隔離であり、試練だ」
軍の指揮権は「アイゼン要塞の守備」という形に限定され、本隊の軍議への参加も禁じられた。実質的な権力の中枢からの離脱。しかし、エジルの声には、かつて私生児であった彼を拾い上げた時のような、微かな親心が混じっていた。
兄弟たちは、誰一人としてフランを庇おうとはしなかった。憤りよりも、本能的な「恐怖」が勝っていたのだ。フランという「人間離れした怪物」が、自分たちの視界から消えることに、どこかで安堵を感じていた。
「……承知いたしました、父上。命のままに」
フランは深く一礼した。その声には、悲哀も、恨みがましい響きも一切なかった。
数日後。
フランは、最低限の部下と身の回り品だけを馬に乗せ、誰一人見送りに来ない城門を静かに去った。北風に翻る漆黒の外套が、雪混じりの霧の中に消えていった。




