無音の共鳴、奈落の底の密約
王都アイギスの夜は、狂王ユヌベクスの疑心暗鬼が形となったかのような、不気味な濃霧に包まれていた。レオナールはその闇をマントで切り裂き、この数年で彼自身が「断罪」し、社会的に葬り去ってきたはずの者たちの潜伏先を巡る。
それは膿を出すための処刑ではなく、真の忠臣を王の視線から救い出し、反撃の駒として盤上に配置する、極秘の行軍であった。
深夜、王宮の最下層。鼠の鳴き声と湿った壁の滴りだけが響く地下牢に、冷酷な軍靴の音が近づく。
現れたのは、第一王子レオナール。彼が鉄格子の前で独り立った時、数日前に「公金横領」の罪で彼自身が捕らえたはずのバシュラール伯爵が、暗闇の中で静かに頭を下げた。
「……息災か、バシュラール」
「殿下の断罪があまりに完璧でしたのでな。危うく本当に自分が大罪人だと錯覚するところでしたよ」
バシュラールは苦笑いしながら、鎖の音を響かせる。彼はレオナールの真意を知り、一族の名誉をあえて汚してまで、地下に潜って反乱軍の核となることを引き受けた男であった。
「準備は整った。明日、私は父王の御前で『アルザス親征』を奏上する。貴公の役目は、処刑台へ向かう直前に『脱獄』し、王都の城門を内側から開くことだ」
「承知いたしました。……殿下。アルザスの地で、あの怪物の首を上げてください。我らはこのアイギスで、腐った根をすべて断ち切ります」
次に向かったのは、王都の端に位置する、荒れ果てたカステル公爵邸の離れであった。
ここには、レオナールの正妻セシリアの実家でありながら、レオナールによって「無能ゆえの降格」を言い渡され、政治の表舞台から追放されたカステル公爵が潜伏していた。
埃の舞う密室。カステル公爵は、娘セシリアに宛てた手紙を焼き捨て、レオナールを静かに迎えた。
「殿下、カステル家が密かに集めた私兵三千。そしてフラン様から届いた最新の帝国製火器、すべて地下蔵への配備を終えました」
「……義父上。セシリアを、貴公の娘を、この数年寂しい思いにさせてしまった」
レオナールの言葉に、老公爵は首を振った。
「娘も分かっております。カステル家が『無能な没落貴族』として冷遇されることで、王の疑いから逃れ、これほどの軍備を蓄えられたのです。セシリアも、アルザスで子供たちを守るセシル様たちに恥じぬよう、王宮の奥で盾となっております」
カステル家は、レオナールの「冷遇」という名の加護によって、狂王の目から完全に隠された最強の伏兵となっていた。
最後にレオナールが訪れたのは、王都郊外の廃寺であった。
そこには、かつてレオナールが「汚職の疑い」で領地を没収したロラン侯爵と、その配下として共に追放されたヴィアール子爵が、旅装束に身を包んで待機していた。
「殿下、お待ちしておりました。王都周辺の物流網、および通信網の遮断準備、完了しております」
ロラン侯爵が地図を広げる。彼らは「汚職貴族」という汚名を着せられたことで、自由な身分となって王国内を駆け回り、王の親衛隊の動きを封じるための「罠」を国中に仕掛けていた。
「ヴィアール、貴公の配下の工作員たちは」
「すでにアルザスへの街道沿い、主要な橋梁すべてに爆薬を仕掛けました。王が親征を開始し、一定の距離に達した瞬間、退路は消えます。怪物は、二度とこのアイギスには戻れません」
ヴィアール子爵の冷徹な報告に、レオナールは深く頷く。
バシュラールが「武」を、カステル家が「資金と火器」を、そしてロランとヴィアールが「情報と罠」を。彼らは皆、レオナールに切り捨てられることで、王ユヌベクスの絶対的な支配から解き放たれ、自由な殺意を手に入れた者たちであった。
夜明け前、王宮へ戻るレオナールの背後には、もはや孤独な王子の影はなかった。
泥を啜り、名誉を捨て、死んだことにされた「亡霊」たちの軍勢が、彼の足音に呼応するように、王都の地下で静かに武器を研いでいる。
アルザスで育つ十一人の新しい命。
そして、王都の闇で牙を剥く数多の亡霊。
「さあ……膿を出す時間だ」
レオナールは、狂王が待つ謁見の間の扉を見つめた。
その瞳には、もはや迷いも、悲しみもない。ただ、愛する者たちを救い、怪物を葬るという、純粋で鋭利な殺意だけが宿っていた。




