狂王を葬る奏上
王都アイギスの天を突くような尖塔が、冬の薄い陽光を浴びて鈍く光っていた。かつては大陸一の美しさを誇ったその都も、今や重苦しい沈黙と、路地裏に潜む密告者の視線に支配されている。狂王ユヌベクス。その猜疑心は年を追うごとに苛烈を極め、かつて王国を支えた忠臣たちは次々と処刑されるか、あるいは辺境へと追いやられていた。
第一王子レオナールは、冷たい石畳の回廊を独り歩いていた。彼の執務室には、北方アルザスへ流し続けてきた極秘物資の帳簿が隠されている。それは見つかれば即座に「反逆罪」となる死の証拠だ。過労と精神的な摩耗により、レオナールの頬は削げ、瞳の奥には拭いきれない疲労が澱のように溜まっていた。しかし、その足取りに迷いはない。
巨大な黒鉄の扉が、重々しい音を立てて開く。
謁見の間。その奥に鎮座する玉座は、高すぎる天井のせいでどこか怪物の顎のように見えた。そこには、老いと狂気に侵されながらも、未だ凄まじい威圧感を放つ父、ユヌベクスが座っていた。
「……また貴様か、レオナール。報告なら短く済ませろ。耳元で他人の声が響くのは好かんのだ」
ユヌベクスは苛立ったように、肘掛けを指先で叩いた。その目は血走っており、常に何かに怯えているようでもあった。レオナールは、その玉座の前で深く、優雅に膝を突く。それは臣下としての完璧な礼節であり、同時に、親子の絆が完全に断絶したことを示す、冷徹な儀式でもあった。
「父上。王都アイギスの安寧を脅かす、最後にして最大の『膿』を出す刻が参りました。これを放置すれば、アイギスの城壁は内側から崩壊いたしましょう」
レオナールの静かな、しかし確信に満ちた声が広い空間に響き渡った。ユヌベクスの動きが止まる。王は鷹のような鋭い視線を息子に向けた。
「膿だと? このアイギスに、まだ余に刃向かおうとする鼠が残っているというのか」
「ネズミではございません。北の凍土に潜む、手負いの狼にございます。……アルザスのメルクニア一族です」
その名が出た瞬間、謁見の間の空気が一変した。メルクニア。アイゼン要塞で王に見捨てられ、一族の大半を失いながらも生き残った呪われた英雄たちの名だ。
「奴らか。……余の慈悲を忘れ、未だに息をしていたか」
ユヌベクスは不快そうに鼻を鳴らした。その脳裏には、かつて「無双の武門」と謳われたエジルと息子たちの姿があったはずだ。
「本来、奴らの武勇は王家の絶対的な矛として、余の足元で跪き、生涯を捧げるべきものだった。ゆえにアイゼン要塞では、奴らの余計な自尊心を削ぎ、王家の恩寵なしには生きられぬよう戦力を削り、領地も財も根こそぎ奪い取ってやった。英雄としての誇りを剥ぎ取り、王の私兵として飼い慣らすために。……だというのに、奴らはあろうことか戦線からの離脱を願い出た。亡き父や兄たちの『療養と鎮魂』などという殊勝な言い訳を並べてな」
ユヌベクスにとって、メルクニアの申し出を受け入れアルザスへ送ったのは、寛大さの象徴などではなかった。それは「調教」の延長線上にある、さらなる屈辱の付与であった。
「余はあの時、確信していたのだ。身一つで不毛の凍土へ赴き、飢えと寒さに震えて初めて、奴らは己の無力さを知る。そして涙を流して王都を振り返り、余の足元に縋り付いて命を乞う犬になると。……だが、レオナール。今の貴様の口ぶりでは、奴らは凍土で牙を研いでいたというのか」
「左様にございます。父上が与えた『屈辱の刻』を、奴らは反逆の糧へと変えました。帝国の大蔵卿となった四男、フラン・メルクニアが動いた形跡がございます。彼は帝国の潤沢な資金を使い、秘密裏にアルザスへ軍備を運び込んでいる。その目的はただ一つ、父上への復讐。そして、王都アイギスの奪還です」
レオナールは言葉を選び、父の猜疑心という名の火に、丁寧に油を注いでいった。
「それだけではございません。アルザスには、メルクニアの男たちに唆され、王室を裏切ったイザベラ姉上とエレナもおります。彼女たちは王家の血筋を盾に、北方の諸侯を糾合しようと画策しているとの報告も入っております。父上が飼い慣らそうとした矛は、今や帝国の盾を得て、王家の姫たちを旗印に掲げる『簒奪者の剣』へと変貌を遂げたのです。療養も鎮魂も、全ては牙を隠すための芝居に過ぎませんでした」
ユヌベクスは立ち上がり、玉座の前を狂ったように歩き回った。
「おのれ……あの娘共まで余を裏切ったか! メルクニアめ、余に従わぬ者など、この世には不要だ。飼い犬にならぬのなら、今度こそこの手で粉々に砕いてやる!」
「父上、もはや猶予はございません。奴らが冬を越し、万全の態勢を整える前に、こちらから打って出るべきです。それも、中途半端な討伐軍ではいけません。メルクニアの名は未だ民の間に高く、半端な軍では寝返る者も出かねない」
レオナールは顔を上げ、王の瞳を真っ向から見据えた。
「王自らが『裏切り者への鉄槌』を下す。これこそが、揺らぎ始めた王権を再び盤石なものとし、アイギスの民に王の威光を知らしめる唯一の道。不実な娘たちを自らの手で裁き、一族を根絶やしにする……。王による、アルザス親征。これ以外にございません。私も先陣を務め、この手で裏切り者どもの首を撥ねてご覧に入れましょう」
ユヌベクスは、息子のその冷酷な言葉に、初めて満足げな笑みを浮かべた。自らの息子が、自分と同じ「怪物」になったと確信した瞬間だった。
「ククッ……クハハハハ! 良い、良いぞレオナール! 貴様のその冷えた瞳、気に入った。そうだ、あの忌々しい一族の血で、アルザスの白雪を真っ赤に染め上げてやろうではないか。アイギスの全兵力を動員せよ! 余自らが出陣し、メルクニアの歴史をこの世から完全に抹消してやる!」
王の狂った哄笑が、謁見の間に木霊する。
レオナールは再び深く頭を下げた。床に伏せたその口元には、誰にも見えないほどの微かな笑みが浮かんでいた。
それは、父への勝利の笑みではない。
これで、ようやく親友マリスを、そして姉たちを、父という呪縛から解き放つことができる。自分の命を代償にしてでも、この狂った王政を終わらせる舞台を整えたのだという、悲壮な安堵の笑みだった。
「御意に。直ちに出陣の準備を整えます。……全ては、王国の再誕のために」
レオナールが退室した後、彼は回廊の陰で待っていた側近のセシリアと視線を交わした。彼女の瞳には不安と、指示通りの重圧に耐える主君への献身的な光が宿っている。
「手配は終わったか、セシリア」
「はい、殿下。アルザスのマリス様、そして帝国側で待機されているフラン様にも、隠語にて『獲物は罠にかかった』との報を。……ですが、殿下。本当に宜しいのですか? 姉君様たちまでをも利用するような嘘を並べて。万が一、王が戦場で取り乱せば、姫様方の御身も……」
「姉上たちは分かってくれる。いや、むしろあの方々なら『もっと冷酷に言いなさい』と笑うだろうな。あの人たちは、俺が思うよりずっと強く、メルクニアの女になっている。父上が望んだ『飼い犬』とは、正反対の生き方を選んだのだから」
レオナールは胸元に隠した、イザベラからの手紙にそっと触れた。そこには、復讐ではなく、愛する者たちのために生きろという、優しくも強い願いが込められていた。
王都アイギスを後にする軍列の先頭に、レオナールは立つ。
背後には、豪華な馬車に揺られ、勝利を確信して悦に浸る父王。
そして前方には、極寒の北風が吹き荒れる、決戦の地アルザス。
そこには、かつてアイゼン要塞で父を見殺しにされた怒りを胸に、愛する妻を守るために立ち上がるウルフとマリスが待っている。そして、帝国からは「経済」という名の鋼鉄の網を張り巡らせたフランが、静かに王国の最期を見つめている。
軍靴の音が、凍てつく大地を踏み締める。レオナールの視線の先には、真っ白な雪原がどこまでも広がっていた。その白さは、これから流される血で染まるためのものではなく、古き悪夢を塗り潰し、新しい歴史を書き込むための白紙に見えた。
「待っていろ、マリス。イザベラ姉上、エレナ。……今、助けに行く」
独り言ちたレオナールの言葉は、鋭い北風にかき消され、誰に届くこともなく冬の空へと消えていった。しかし、その決意だけは、アルザスの地で牙を研ぐ狼たちに届いているかのように、彼の歩みを力強く支えていた。




