旅立ち
あの日から、数週間が過ぎた。
いよいよ明日――リリアたちは、遥か北の果てへ旅立つ。
出発を前に、ノワール公爵家では慌ただしく準備が進められていた。
旅に必要な衣類や食料、薬品、護衛のための装備。
そしてもうひとつ、エルヴィンが何より気にかけていたのが、使用人たちのことだった。
今回の旅は、どれほどの長さになるか分からない。
彼は、当主として皆の今後を案じ、屋敷で働く使用人たちに、他家への推薦状を書くことにした。
「帰りを待つ必要はない。
希望する者には、私から推薦状を書こう」
ところが――
そう告げたエルヴィンに、使用人たちは揃って首を横に振った。
「お断りいたします」
「……え?」
あまりにも揃った返答に、エルヴィンとクラウスは目を瞬かせた。
「公爵様。私、このお屋敷が好きなんです」
「私もです!」
「他家へ行くなんて、とんでもありません」
「公爵様がお戻りになるのを、ずっとお待ちしております!」
次々と上がる声に、エルヴィンはしばし呆然とした。
その中には、長年この屋敷に仕えてきた者もいれば、まだ若い者もいる。
やがて、ふっと口元を緩める。
「……そうか」
その声には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
「皆、ありがとう」
エルヴィンは一人ひとりの顔を見渡す。
「では、約束しよう。
私たちが戻ったとき――また、この屋敷で働いてほしい」
「もちろんです!」
「絶対ですよ、公爵様!」
「戻ってこられたら、真っ先にお知らせくださいね!」
賑やかな声に、エルヴィンは苦笑しながらも頷いた。
「分かった。
皆に心配をかけないよう、努めよう」
*
ノワール領は、豊かな土地だった。
広い畑や果樹園では季節ごとに作物が実り、牧草地には家畜が育つ。
小さな工房や商店も多く、人々はそれぞれの営みを大切に暮らしていた。
そのため、屋敷を離れる者たちの多くは、それぞれ家業を手伝いながら、エルヴィンたちの帰りを待つことになった。
そして、当主不在の間も領地と屋敷を滞りなく守るため、残る者たちの選定も進められていた。
エルヴィンとクラウスが信頼する者たち。
領地の事情に精通し、万一の事態にも対応できる精鋭たち。
その中には――エリスの姿もあった。
出発前夜。
すべての準備を終えたリリアが、屋敷の玄関へ向かうと、そこにはエリスが立っていた。
いつもなら明るく笑って迎えてくれる彼女が、今夜は何も言わない。
ただ、リリアの姿を見つめていた。
「エリス……?」
いつもの彼女なら、きっと明るく「お気をつけて」と笑っただろう。
けれど今は、眉を下げ、何かを堪えるように唇を結んでいる。
「……リリア様」
次の瞬間。
エリスは、リリアをぎゅっと抱きしめた。




