本の記憶
王宮内に用意された客室には、静かな夜の気配が満ちていた。
暖炉では小さな炎が揺れ、窓の外には、王都の灯りが遠く瞬いている。
その部屋の中央に置かれた机の上には、あの禁書が静かに浮かんでいた。
リリアは椅子に腰掛け、そっと表紙へ手を添える。
先ほどまであれほど強い魔力を放っていた本は、今では驚くほど穏やかだった。
ゆっくりと表紙を開く。
そこには、見慣れない文字がびっしりと並んでいた。
「これは……」
隣からセシリアが身を寄せて覗き込む。
細く刻まれた文字を目で追いながら、眉を寄せた。
「古代文字のようね……」
エルヴィンも書物を覗き込む。
「読めるか? セシリア嬢」
「……厳しいです」
セシリアは申し訳なさそうに首を振った。
「文字の形は、いくつかの古い言語に似ています。
でも、完全に一致するものではありません。
これは……かなり古いものです。
読むには、相当な時間を要するかもしれません」
「そうか……」
エルヴィンが小さく息を吐く。
クラウスも難しい顔で本を見つめていた。
せっかく見つけた手がかり。
それなのに、文字が読めなければ先へ進めない。
誰もがそう思った、その瞬間だった。
「――遥か昔より」
リリアの声が、静かに響いた。
「夜の王国の民と、森の民は……良き隣人だった――」
エルヴィンが、はっと顔を上げる。
「……リリア?」
セシリアとクラウスも、驚きのあまり動きを止めた。
リリア自身も、自分の声に驚いていた。
けれど、目の前の文字が――読める。
文字を目で追うだけで、意味が自然と頭の中へ流れ込んでくる。
「読める……!」
震える指先で、頁をなぞる。
「読めます! エルヴィン様!」
その瞳に、驚きと喜びが同時に宿った。
「私、この文字が分かります!」
エルヴィンはしばらく言葉を失った。
リリアを見つめると、静かに頷く。
「……ならば、聞かせてくれ。
ここに何が記されているのか」
「はい」
リリアは頷き、古い頁へ視線を落とした。
そして、そこに眠っていた遥かな過去を、ゆっくりと読み上げていった。
*
――北の果て。
氷と影に覆われた地に、かつてひとつの王朝が栄えていた。
夜を生きる者たちによって築かれた、夜の王国。
そこに暮らしていたのは、血を糧とする民――吸血鬼の一族だった。
けれど、かつての吸血鬼たちは、今知られているような魔性の存在ではなかった。
古き時代。
吸血鬼たちは、人と共に生きていた。
その理由のひとつが、森の民の存在だった。
森の民が持つ癒しと鎮めの力。
それは吸血鬼たちの身に宿る、抑えがたい吸血衝動を穏やかにすることができた。
森の民と共にあることで、吸血鬼たちは自らの本能に飲み込まれることなく、人々と共存することができたのだ。
だが――。
その穏やかな日々は、人々の恐れによって壊されていった。
森の民が持つ力を恐れる者。
吸血鬼という存在を忌み嫌う者。
やがて森の民への迫害が始まり、二つの民の間にあった絆は、少しずつ引き裂かれていった。
森の民が姿を消していくにつれ、吸血鬼たちは自らの衝動を抑える術を失っていった。
そして、少しずつ。
彼らは人々が恐れる「魔性」へと変貌していった。
夜の王国は、やがて滅びの時を迎える。
最後まで民を守ろうとした吸血鬼の王は、すべてを悟った。
この国では、もう一族を守り切れない。
王は滅びを受け入れるのではなく、一族を逃がす道を選んだ。
生き延びるために。
いつの日か、再び森の民と巡り会えることを願って。
――そして。
その血族は、今も生きている。
厚い結界に守られた、遥かなる森の中で。
森の民と共に。




