4.トイレのドア
話が一通り終わると、海里は客室へ案内された。
茉優のほうは、ネルという女性を世話係として紹介され、別の場所へ案内されていった。少し気になるところではあったが、ようやく一人になれるというのはありがたい。ここまで何が起きたのかを整理するにも、誰かの目を気にせず考えたかった。
案内された客室は、いたってシンプルだった。寝台と文机、それに椅子がひとつ。部屋の奥にはトイレがあり、その隣には簡素ながら浴槽のある風呂場まで用意されている。最低限必要なものは一通り揃っており、少なくとも寝泊まりするだけなら不自由はなさそうだった。
寝台に腰を下ろし、そのまま横になる。
柔らかな寝具に体を預けると、そこでようやく、召喚されてからずっと張っていたものが少し緩んだ。
「……疲れた」
仕事を終えて帰る途中だったはずなのに、まさか異世界に来ることになるとは思わない。しかも、聖女召喚に巻き込まれたおまけだという。
寝台の脇に置かれていた鞄に目を向ける。
仕事帰りに持っていた鞄も、先ほど渡された。召喚された場所の通路に落ちていたらしい。中身を確認すると、財布も携帯電話も入ったままだった。
携帯電話を取り出して画面をつける。
「あー……やっぱりか」
全くアンテナが立っていない。通信は全くできないようだ。眺めていると、画面が暗くなる。ぼんやりと疲れた顔が映った。
電気は通っているようだが、照明に使われているのは、子供の頃に林間学校で泊まった施設にあったような白熱電球だ。
海里は携帯電話を鞄に戻し、しばらく天井を眺めた。
――帰れるかどうか、試しておくか。
まだ誰にも話さないと決めた。であれば、人の目があるところで試すわけにもいかない。
今なら、一人だ。
海里は起き上がると、部屋の中を見回した。
多分、あそこからならいける。
廊下に人の気配がないことを確かめてから、部屋の壁の一角、ちょうど腰の高さくらいに手を伸ばす。
何かを掴んだような感触があった。
そのまま手首を捻るように回し、押し開く。
日本で暮らしていた、一人暮らしのマンション。その部屋のトイレのドアだった。
「いや、なんでトイレ」
開けた先には、見慣れた廊下の壁紙がある。左手には玄関、右手にはリビング。廊下とリビングを隔てる中扉は、今朝家を出るときに開けっぱなしにした状態のままだった。
間違いない。自分の部屋だ。学生時代から住み慣れた、いつもの部屋。
靴を持って中へ入る。振り返ると、便器があるはずの場所に、先ほどの客室が広がっていた。
「うちのトイレ、どこ行った……」
荷物をいったん置き、深呼吸する。
廊下からトイレのドアを握り、そっと閉まるか閉まらないかのところまで動かしたところで、もう一度開く。
開いた先は、客室だった。
ふう、と大きく息を吐き出す。
今度はゆっくりとドアを閉め、「いち、に……さんっ」と勢いよく開いた。
トイレがある。
もう一度閉め、いったん手を離す。深呼吸をしてから、今度は教団の客室のドアを開くことを思い浮かべながら手を伸ばした。
開いた先には、客室があった。
「……なるほど?」
行きたい場所を思い浮かべれば、そこへ繋がるらしい。分かったか分からない声を上げながら頷く。考えても答えが出そうにないことは後回しだ。
そこまで確認すると、海里はいったんそのままドアを閉じた。
時計を見る。
もう日付も変わろうという頃だった。
あちらに行ってからの時間と比べても、体感的に極端な差はないように思う。異世界にいる間だけ時間の流れが変わる、というわけではなさそうだった。
自宅でシャワーを浴び、人心地つく。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に半分ほどあおった。
「……」
夢だったのだろうか。
昨夜からいろいろあって疲れた結果、妙にリアルな現実逃避でもしているような気がしてくる。
「いろいろ…………あっ」
思い出して、携帯電話を手に取る。
今度はしっかりアンテナが立っている。彼女――今となっては元彼女だろうか――からの着信履歴はない。
「だよな……どうしよう……」
頭を占めるのは、世話係として紹介された女性に連れられていく茉優の後ろ姿だった。
こんな時間になっても家に帰っていないとなれば、家族は気が気ではないだろう。
何かニュースになっていないかと、検索エンジンに思いつく限りの言葉を入れてみるが、それらしいものは見当たらない。
「とりあえず、もう一度行かないと」
茉優という未成年の少女がいる。何もせずになかったことにするには気に掛かる。危なくなるようであれば、こちらに帰ればいい。自分にはその手段がある。
それに、どこまでできて、どこからできないのか。まだ分からないことも多い。早いうちに確認しておいたほうがいいだろう。
海里は仕事用の鞄を開いた。
あちらへ持っていくものをいくつか選ぶ。逆に、財布などはいくらか現金を抜き、それ以外はそのまま置いていくことにした。
ふと、手が止まる。
もしかしたら、教団関係者に鞄の中身は見られているかもしれない。
自分が彼らの立場だったとしても、不審な人物の持ち物なら、一度くらい確認するだろう。ポリエステル製の軽量な鞄も、あちらにはなさそうな素材だ。あまり大きく中身を入れ替えないほうがいいかもしれない。
「何がいるかな……災害袋的な? サバイバルグッズ的な?」
ネットで調べてみるものの、どれも今ひとつしっくりこない。
ナイフなんかは、持っていることに気付かれれば、余計な説明が必要になりそうだ。必要になったときに取りに帰ればいい。そう考えて、持っていくものは必要最低限に留めることにした。
身に着けていたのと同じようなスーツ一式と仕事用の鞄、それに革靴を手にして、トイレのドアの前に立つ。
ぐっと気合を入れてドアノブを握り、そっと覗く。
変わらない客室の様子があった。
確かめるように足先を踏み入れ、ドアを閉める。
扉は、石造りの壁に戻っていた。
部屋の外の様子も変わらない。自分がいなくなっていたことには、気づかれていないようだった。
「疲れたーー」
本日何度目だろう。さすがに本気で疲れた。
海里は再び寝台に横になる。
そういえば、明日は土曜日だった。
そして、明後日も休みだ。
「……週末でよかったかも」
こんな状況で仕事の心配までしたくない。とりあえず土日の二日間、予定は入っていない。普段ならどちらか一日は彼女と会っていたのだが、その必要もない。
今は休もう。
これからのことは、起きてから考えればいい。
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