22 特別な存在
「こ、これは! あの、だから」
彼はうろたえ、ベッドから起き上がろうとしている気配がしたので。
「そのままでいいです……そのままでいてください」
「でも」
「そのままでいてください。なにがあったのか説明してくれますよね……?」
彼がわたしの背中側で縮こまっている気配が戻りました。
しらばくして、彼は、ぽつりぽつりと話し始めました。
「オレの目の前で……キミが流木だらけの真っ黒な水に飲み込まれた……たちまち姿が見えなくなって……」
彼の声は、ひどく弱弱しくて。
いつもの、どこか余裕のある声と、まったくちがっていて。
「懸命に探したけど、見つからなくて……時間ばかりが経って……下流に流されてしまったら……オレがあの時、ドアを開けて一緒に作業をしていればって……キミが騙そうとしていないことなんてわかっていたのに……後悔で胸が苦しかった……そうしたらキミの馬が鳴いたんだ。この丘のふもとの池みたいになったほとりで鳴いたんだ」
その声は素直でした。
「雨で杭をさしていた地面がゆるんで、杭が倒れて、動けるようになっていたらしいんだ……」
整理されてなくて、余裕がなくて。
「駆けつけると、キミが顔を水たまりにつけて、うつぶせになって倒れてた。抱き起すと、最初は息が止まっていたけど、凄くたくさんの水を吐いて、ほんのかすかに息が戻って来て……でも、身体は宮殿の石壁みたいに冷たくて……肌は青白くなってて……死んだ人みたいで……」
声は震えていました。
この人は本当に怖かったんだ。わたしが死んだんじゃないかって。
わたしがいなくなってしまうんじゃないかって。
「馬の背に載せて、慌てて運び上げて。家の中に運び込んで、冷え切った体に濡れたままのものを着せてちゃいけないから、ズボンも下着も脱がせて……家に残っていた乾いた布を手あたり次第全部使って体は拭いて……なんとか水は拭きとったけど、もう濡れていないものがなにもなくて……」
わたしの胸の奥が、きゅうっと締め付けられた。
女にしては背が高くて、胸が大きめな以外(それだってあの男爵令嬢ほどではありません)は、いやらしい目で見られることすらない体。
筆頭侯爵令嬢という立場がなければ、ただの平凡な女の身体。
それなのに今日は、化粧もしていないし、下着だって飾り気が全くないもので。
しかも泥まみれで、死人みたいな体を。
何の用意もないまま、全部、隅から隅まで見られてしまったのです。
「ベッドがある場所以外は、雨漏りで濡れるから、ベッドに寝かすしかなくて……あたためようにも煙突にも水が入って暖炉も使えなくて……オレが温めるしかないって……ほんとうなんだ……信じてくれないかもしれないけど」
わたしの裸を見て、彼はどう思ったのでしょう。
きっと、失望したでしょう。
それとも、乗馬服姿を見ていれば、だいたい想像がつくから、今さら何も思わなかったのでしょうか?
彼が、無防備で裸の女を前に何もしなかったのは、わたしがそれに値する存在ではなかったから……?
「キミを後ろから抱きしめて、オレのあたたかさを少しでも伝えようとして……石みたいに冷たくてなったキミの肌を、さするくらいしか思いつかなくて……そうしたら、徐々に、息が落ち着いてきて、身体があたたかくなってきて……だけど、キミは全然目をさまさなくて……」
不意に、あの声が耳に蘇った。
『マリア……目を覚まして……お願いだよ……なんにも他には望まないから……目を覚まして……』
「……ねぇ、わたしのこと、いつから名前で呼んでいたの?」
「……呼んだことはない。さっきは思わず……口を突いて出てしまっただけで……許可を取らないと呼んではいけないくらい、オレだって……」
「そうじゃないの……心の中では呼んでいたりしたの?」
ためらいのあと、彼はひどく後ろめたそうに、
「ずいぶん……前から……」
「え……いつから……?」
「それは……その……キミに……あのハーブティを、失礼なハーブティを送る少し前くらいから……だよ。気づいたら、いつも心の中では、キミを……」
「!」
そんなに前から。
「ごめん……許可もないのに勝手に……気持ち悪いよね……」
「そ、そんなことありません!」
うれしかったんです。
そんなに前から、わたしは彼にとって名前を呼ぶ存在だったことが。
でも、わたしはもう一つの可能性にすぐ気づきました。
「他の人も、心の中では名前で呼んでいたんですか……?」
名前は、人を区別する意味だってあるのです。
「……キミだけだよ。だから、すごくごめん……」
彼にとって、わたしは特別だったんだ。
ずっと前から。
今のわたしにとって、彼が特別であるように。彼も。
たくさんある作品の中から、拾って読んでくださってありがとうございました。
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂けたこと幸いでございます。
完結までよろしくお願い致します




