19 去りにし日々、過ぎ去りし日々のまぼろし
夏だというのに、外は寒く。どんよりと湿っていました。
何も生みだせなかった遣り取りの間に、陽はすっかり落ちて、夕暮れの名残の赤がひとはけ残っているだけでした。
この扉は、わたしに向かって二度と開かれることはないでしょう。
この扉だって……わたしにとっては彼との思い出の扉なのに。
わたしが修理を手伝わせてもらった時、初めてのこぎりで木を切らせてもらった思い出の。
それが今では、わたしを冷たく拒絶しているのです。
幾ら叩いても、開かない。
わたしたちの間には、もうなにもないのです。少なくとも彼にとっては。
わたしがここに来れば、ハーブティを淹れてくれはするかもしれません。
王配になってくれるかもしれません。
でも、それは、わたしが彼の生殺与奪を握っているからにすぎないのです。
わたしは、のろのろと立ち上がりました。
「帰らなきゃ……」
袖で目の辺りをぬぐって、顔をあげた瞬間、
なにか冷たいものが、額に落ちて来たのを感じました。
「え……」
陽を喪って、真っ黒に染まった空から、雨が降り出していました。
いいかもしれません。
雨に打たれて帰れば、涙で汚れた顔もきれいになるかもしれません。
わたしは、愛馬に歩み寄りました。
愛馬は何事か気づいたのか、わたしを慰めるようにほほをなめてきます。
「ありがとう……だいじょうぶだから……帰りますよ」
背にのろうとしたその時、
「……?」
聞いたことのない音が、耳に届いてきました。
水の音です。
小川の音?
いいえ、いつもはここまで、小川の音は届きません。
胸騒ぎがしました。
わたしは、丘を駆け下りました。
おかしいです。
いくら陽が落ちても、こんなに一気に暗くなるはずがありません。
水の音は、ますます大きくなってきました。
それは、小川に近づいたからとか、そういうのではありませんでした。
轟、轟、轟。
せせらぎではなく、轟き。
小川が発する音ではありませんでした。
夜の底で何か起こっています。
丘のふもと、夜の底一面に、芋の白い花、紫の花がうすぼんやりと光っていました。
「!」
わたしの乗馬靴が、水を踏んだ音がしました。
小川が溢れているのです。
目をこらすと、薄暗闇の中で、くらぐらとした水が、闇の底にひろがっていくのが見えました。
一面の白や紫の花が、流れる水でざわざわと揺れています。
『ただ、水に浸かるとダメになってしまうみたいだ。前に一度、長い雨の時、畑が水に浸ってしまってね。7割くらい腐ってしまったよ』
彼がそう言っておりました。
わたしは、丘を駆けあがって。
「小川の水が! 溢れてます! あなたの畑が! 水浸しに!」
そう叫びながら、扉を叩きました。
何度も何度も叩きました。
でも、反応はありません。
わたしが、ウソをついて、この扉を開けさせようとしてる。そう思っているのかもしれません。
実際、今降っている雨自体は大したことがないのです。
小川が溢れているのは、この雨が原因ではないのです。
「あ……」
そういえば、ここより上流で凄い雨が降って大きな被害が出たという報せがありました。
53年ぶりの大水だったと。
その水がここに?
でも、それを確かめるすべはありません。
「ほんとうです! ほんとうなんです! 信じてください! 水があふれてるんです!」
反応はありません。
わたしは、丘を駆け下りました。
あの時、彼は対処の方法を教えてくれたはずです。
確か……。
『掘り出して、水が浸からないところに避難させるしかないだろうね』
さっきよりも水かさがましているようでした。
このままでは、芋はダメになってしまうでしょう。
ふたりで並んで雑草取りをした光景が頭に浮かびます。
すごく晴れた日で、空はどこまでも青くて、彼から借りた麦わら帽子をかぶって。
次に来た時には、わたし用の麦わら帽子が用意してあって。
すごくうれしかった。、
頭を振って、楽しい記憶を振り払います。
あれは全部、わたしを接待していただけだったのですから……。
でも、振り払ってもあの記憶は、美しくて。
思い出すと、今でも幸せで。
その光景があった場所を、守りたくなってしまう気持ちは本物で。
彼が信じてくれないなら、わたしが何とかするしかありません。
たくさんある作品の中から、拾って読んでくださってありがとうございました。
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂けたこと幸いでございます。
完結までよろしくお願い致します。




