16 計算も計量もできないのに、そこにあるもの。
わたしは、部屋を飛び出しました。
筆頭侯爵家の令嬢にふさわしい振舞いなど無視して、屋敷の廊下を駆けました。
幸いなことに、誰もいない厩へ駆け込むと、愛馬の元へ――
「お嬢さま」
愛馬にまたがろうとした所で、不意に声をかけられました。
いつも、影のように側に控えてくれている侍女でした。
「止めないで」
「止めません」
そういうと侍女は、わたしに乗馬服を差し出してくれました。
「その恰好で馬に乗るのは、いささか動きにくいかと」
着替えを手伝ってもらいながら、訊かずにはいられませんでした。
「……なぜ止めないの」
「お嬢さまは日頃、私の事など意識していらっしゃらないでしょうが。おそばに仕えさせていただいて、10年になります」
わたしは侍女の顔を見ました。
わたしより年上という以外は年齢不明の、丸顔のこれといって特徴のない顔。
彼女は両親にも、我が一族の企みを共有されているくらい信頼されていて。
王宮で王太子妃教育と称する労働の日々も、あの夜も、わたしの傍らに影のようにいてくれました。
彼女は、わたしに関してほぼ全てを知っている人。
それなのに、ちゃんと顔を見たのは初めてかもしれません。
ここにも、わたしが見ていなかった人がいたのです。
名前は……少し思い出すのに時間がかかってしまいました。
確か、アガタ。
「私は、御屋形様によって孤児院から引き取られた者です。僭越ながら、係累がいない私はお嬢様のことを、どうしても妹のように思ってしまうのです」
いつから彼女が側にいてくれたのか、思い出せません。
ほんとうに、わたしは見えてない、知らないことが多かったのです。
彼がいなかったら、気づくこともなかったでしょう。
「その妹が、日々、生き生きとして表情豊かになっていくのを、きれいになっていくのを、うれしいと思わない姉がいるでしょうか?」
「わたしが?」
髪をアップして、きゅっと後ろで結びながら訊くと、
「ええ。あの方の元へ通うようになってからです」
「……」
周りからもそう見えていたなんて……侯爵令嬢失格ですね。
でも、ここにも、わたしをわたしとして、見ていてくれた人がいたのです。
「なのに先日、帰っていらした時、魂が抜けたようなひどいお顔をしておりました……」
「わたしが……?」
「はい。正直申しますと、あのクソ野郎を、たっぷりと時間をかけて、生まれたことを後悔するような殺し方で処そうかと思いましたが、そんなことをお嬢様が知ったら悲嘆にくれる、と考え直して、なんとか踏みとどまりました」
踏みとどまってくれてよかった……。
「お嬢さまは、それ以降、いつにもまして仕事に没頭されておられました。あの方のことを忘れたいとでもいうふうに」
ああ、この人は、ほんとうにわたしを見ていてくれていたんだ。
「ですが今、お嬢様は、生き生きとした顔をしていらっしゃいます。妹がやるべきことを見つけたのに、止めようとする姉がいるでしょうか?」
わたしは愛馬に飛び乗りました。
彼女は馬の手綱をとらえて、厩舎の入り口まで導いてくれて。
「お嬢さまは、具合が悪いということにしておきます。明朝……いえ明日の昼……いや夕方までは、ご不在をごまかせると思います」
「ありがとう。アガタ」
彼女の顔が、パッとほころびました。
ああ、名前を呼ぶことは、単に名前という識別のための記号を呼ぶという以上の意味があるのです。
「ご武運を」
わたしは屋敷を飛び出して、夕日に照らされた森の中を駆けていきます。
長い長い影を幾つも飛び越して、突き進みます。
何かを感じたのか、老いた愛馬も、力の限りの疾走してくれます。
激しい動きに、わたしの肌からも汗がにじむのを感じます。
あの人に、叩きつけてやりたい。
ちがう。ちがう! と。
断じて、ヒマつぶしなんかではなかったと!
あの人は、かつてのわたしのように、わたしを形としてしか見ていない!
あんなに長い時間を過ごしたのに、わたしを見てくれていなかった!
かつて、あなたを見ていなかったわたしと同じに!
それを伝えなければ。
まだ、どこかでひきずっていた侯爵令嬢に相応しい言動なんて投げ捨てて、伝えたい!
森を抜け、平原に続く道へ出ました。
沈みつつある夕日が辺り一面を染め上げています。
ですが、どうすれば?
彼の前で這いつくばればいいのでしょうか? きっとそれは違います。
全てを捧げればいいのでしょうか? きっとそれも違います。
それだって、形を守るために、必死になっている、としか思ってもらえないでしょう。
形に拘ったことで、わたしはどれほどの時間を空費したことか!
いえ、形が必要なこともあるのです。
わたしが学んで処理して来たのは、そういう世界です。
ですが、そうでないこともあるのです。
わたしは、それをようやく知りました。
いえ、それに包まれ幸せだったのに、気づいていませんでした。
父や弟のまなざしや、母の言葉、侍女がわたしを見てくれていたこと。
それは、全て、形なき理屈なきものでした。
計算も計量もできないが、確かに、そこにある、なにものか。
ですが、形のないものを、どうやって証明すればいいのでしょうか。
小川沿いに出ます。
わたしはただひたすら馬を走らせます。
彼の家が見えてきました。
丘の上の家。
その麓に広がる畑。
夕日に染まっている以外は、いつもと何も変わらない光景が迎えてくれます。
彼にもうすぐ会える。
是が非でも会う。
会いたい。
ですが、彼を説得する、理論も理屈もわたしにはないままです。
いえ、理屈はあります。そういうのは得意です。
それが彼に届かないのがわかってしまっているのです。
彼は無敵の城塞。
自分が無であるという理屈で、全てから超然として高い高い城壁。
どんな感情にも、それを装う理由を見つけてしまう深い深い堀。
わたしの立場が上で、彼の立場が下、だからこそこちらの言葉が強制と取られてしまう鋭い反撃。
婚約していた時より、遥かに濃密な時間を過ごしていた筈なのに、城の中は、見えないまま。
勝ち筋が見えない戦いなんて初めてです。
でも、それでも、わたしは……立ち向かうしかないのです。
丘をかけのぼり、馬から飛び降りると、わたしは、扉の前で立ち止まってしまいました。
怖い。
わたしは怖い。
今度こそ、わたしは打ちのめされて、二度と彼と関われないかもしれない。
それでも。
わたしは、覚悟を決めて、扉を叩きました。
たくさんある作品の中から、拾って読んでくださってありがとうございました。
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂けたこと幸いでございます。
完結までよろしくお願い致します。




