新たな主
涙に濡れながらも真剣な表情で、そう告げてきた。
戻りたい、と告げてきた桜鬼の言葉で櫻真の胸に嬉しさが込み上げてきた。
「うん。おかえり、桜鬼」
櫻真が笑顔で桜鬼にそう告げる。
すると桜鬼が再び泣きそうな顔をして、勢いよく櫻真へと抱きついてきた。
「ただいま、ただいま……櫻真! 櫻真が迎えに来てくれて、妾は本当に嬉しい」
そう言いながら桜鬼が櫻真に抱きつき、子供のように泣いている。
(ああ、いつもの桜鬼や)
泣いている桜鬼を宥めながら、櫻真はようやく桜鬼が自分の元に戻ってきた事を実感していた。もう桜鬼を手放したくはない。そう強く思う。
残る鬼絵巻や櫻花のこと。櫻真たちにはまだまだ考えなくてはいけない事がある。けれどそれでも、櫻真と桜鬼の中に形容し尽くせない喜びが広がる。
そんな櫻真たちの元へ、鬼兎火と立ち替わるように儚が近づいてきた。
「櫻真と仲直りできてホンマに良かったな。それから……ウチを助けてくれてありがとう」
儚が示しているのは、桜鬼が儚を穂乃果の結界内から助け出したことについてだ。
菖蒲たちが合流したあと、儚にどうやって穂乃果の結界内から出たのかを尋ねると、儚を穂乃果の結界から助け出したのは、桜鬼だと話してくれた。
桜鬼は結界への敵の侵入を見張っていた魁から敵と認識されていなかったため、いとも容易く結界内に入り、魄月花たちが来る前に儚を別の場所へと移動させていたのだ。
ただその時の桜鬼は体調が万全でなかったため、儚に結界を張り、自分の体力を回復させながら儚を䰠宮家の方へと移動させていたらしい。
そのため陰陽院内を隈なく探していた、魄月花たちの探知に引っ掛かる事がなかったのだ。
「ウチも意識が朦朧としとって、上手く話せへんかったけど、桜鬼が助けようとしてくれたのは覚えとるよ。だからお礼を言いたかったんよ」
「お礼を言われる事ではない。結局、あの時に妾が助けずとも魄月花たちが助けていた。それこそ妾が動かなければ、もっと早く助けられていたはずじゃ」
そう言いながら桜鬼が眉を寄せる。
「仮にそうだったとしても、桜鬼がウチを助けてくれた事に変わりないやん。だからウチが桜鬼にお礼するのは当然やろ? 櫻真もそう思わへん?」
儚が櫻真の方を向いて同意を求めてくる。素直に頷けない桜鬼に対する配慮だろう。櫻真は儚の言葉に頷き返す。
「桜鬼。桜鬼の気持ちも分かる。けど今は儚のお礼をしはりたいって気持ちを優先させてもええんちゃうかな?」
気まずそうに視線を下げていた桜鬼を諭すように櫻真が言う。
すると桜鬼が櫻真の顔を見てから、儚の方を見てモジモジとしている。
「何とも、妙な感じにはなってしまったが……その、儚が事なきを得て良かったと思う……」
「うん! ホンマにありがとう、桜鬼」
儚がにっこり笑ってそう言うと、その儚に釣られるように桜鬼も笑顔を浮かべてきた。
和やかな空気が辺りを包む。
しかし……そんな櫻真たちの気持ちを一蹴するように、遠くから傍観者となっていた葵が手を叩いてきた。
「ええ、本当に。ここだけ見たら何て素敵な大団円なんでしょう? けどまだそれを迎えるのは早くなくて?」
櫻真もハッとして、葵が右手に持っている物を注視した。
葵の手に持たれているのは、先ほど桜の木から取り出した鬼絵巻だ。そして紫色をしていた鬼絵巻の色が濃さを増し、黒々としている。
(葵姐さん、また何かしよるつもりや……)
櫻真は桜鬼の前に立ちながら、何かを企む葵へと身構える。そしてそれは櫻真以外の䰠宮家も同じだ。和やかな空気が一変し、再び張り詰めた空気になる。
その殺伐とした空気を再び作り出した葵は顔色も変えず、飄々と口を開く。
「これまでだったらこの鬼絵巻は櫻真に上げていたんだけど、予定を変更する事にしたのよ」
「予定を変更?」
「ええ。だって櫻真はちっとも姐さんの言う通りに動いてくれないんだもの。懐の大きな姐さんでも流石に堪忍袋の緒が切れるでしょ? だから……」
本心ではない言葉を並べながら、葵の姿が一瞬のうちに消える。
そして次の瞬間に葵が現れたのは桜鬼の背後だった。
「ふふふ。もうそろそろ櫻花ちゃんだって自分だけの肉体が欲しい頃合いじゃない?」
目を細めた葵がそう言うと、徐に桜鬼の身体へと鬼絵巻を押し付ける。
すると葵の右手ごと桜鬼の身体の中に入り込んでいく。
「これ以上、桜鬼に変なことさせへんっ!」
櫻真がすぐさま葵へと水行と木行を組み合わせた、氷の刃を放つ。
櫻真の放った氷の刃は躊躇うことなく、葵の身体を串刺しにする。例え葵が瞬間移動の術を持っていたとしても、桜鬼に何かしようとしている葵に避けることはできないだろう。
それに葵が再び避けていたとしても、葵による桜鬼への干渉を止める事に変わりはない。
そして結果、葵は避けることはなく櫻真が放った氷の刃に貫かれた。
無数の氷の刃に貫かれた葵の全身が血で濡れる。
葵ならば身代わりの術を使っているということもあり得たが、そうではなかった。
血で着物を濡らす葵は紛れもない本物だ。
しかし氷の刃に貫かれた葵は痛みに苦悶するわけでも、櫻真に邪魔をされた事に腹を立てるわけでもなく、口元に笑みを浮かべていた。
そして葵が笑った瞬間に、葵が桜鬼の体内に入れていた右手を取り出す。
葵の手が抜けた瞬間、身動きが取れなくなっていた桜鬼が意識を失ってしまった。
「桜鬼っ!」
意識を失った桜鬼の身体を櫻真が支える。
その櫻真の横を魁と魘紫が摺り抜け、葵へと雷を纏った大槍と魘紫の掌打が繰り出される。
「あらヤダ素敵。従鬼二人による挟み撃ちなんて。けど残念ね。葵はお前たちを構っていられるほど暇ではないの。構い相手は葵の他にもう一人、いるはずよ?」
身体から血を垂れ流しながら葵はそう言うと術式を唱え始める。
「鬼絵巻を持ったままで、逃すわけないでしょ? 魑衛!」
「御意」
険しい顔で瑠璃嬢が叫ぶと、それに呼応した魑衛が葵へと刀を振るう。
すると葵が顔の前で指剣を構え、魑衛の刃を受け止めてきた。
魑衛の刃を受け止める為に、超小規模な結界を張って防いできたのだ。
すぐさま魑衛が刃を切り返し、横薙ぎの一閃を葵へと繰り出す。けれどその刃を次に防いできたのは、空間から突如として現れた鬼の手だ。
鬼の手が魑衛の刀を強く握ったまま振り回し、柄を握っていた魑衛ごと後ろへと吹き飛ばす。あの鬼の手は、間違いなく葵が使役する吏鬼のものだろう。
「正真正銘の式鬼神なら祓うまでだろ! 魅殊、援護よろしくな」
自身の手に何らかの術式を纏った魘紫が魑衛と入れ替わるように、吏鬼へと向かっていく。
魅殊が吏鬼の手の動きを封じ、魘紫が術式を纏った両拳を突き出した。
しかしその瞬間、
「蜥蜴の尻尾はよく切れる、ってね」
吏鬼の声が周囲に響き渡ると、その言葉の通り、空間から突き出されていた鬼の手がゴトっと鈍い音を立てて地面に落下した。
躊躇いもなく自分の手を吏鬼が自壊させてきたのだ。
そして地面に落下した吏鬼の手が砂塵になって、跡形もなく消え失せるのと同時に葵の姿が透明になり消えていく。
そのため魘紫が突き出した拳から放たれた衝撃波は、すでに半壊していた本堂の屋根を砂粒レベルまでに粉砕し、腐敗させただけの不発に終わってしまう。
「次に会う時は、私も主となって馳せ参じるから、楽しみにしておくのよ。それではアデュー」
「なっ、待って! 主になるって!?」
葵が残していった言葉に櫻真も叫ぶ。
しかしその答えが知れるよりも先に葵は姿を完全に消してしまった。
(また上手く逃げられて、しもうた……)
葵がいた場所を見つめる櫻真の胸に悔しさが込み上げる。
けれどそんな櫻真へと菖蒲が口を開いてきた。
「櫻真、桜鬼を連れてはよこっちへ来い。もう一つ片付けないとアカンのが残っとる」
菖蒲の方へ向くと、魄月花が敷地内の一角で何らかの術式を展開させていた。
そしてその方を向きながら、小刀を逆手で持つ椿鬼と鬼兎火が刀を構えていた。
椿鬼と鬼兎火が武器を構える先にいたのは、魄月花が展開する術式の中に意識を失ったまま、壁に凭れ掛かるように座る紫陽の姿がある。
座り込む紫陽は目を薄っすら開けていた。その視線は何処か虚ろであり、どんな感情を抱いているか分からない。
けれどそんな紫陽と目が合ったとき、櫻真の背筋に嫌な悪寒が走った。
「クソッ! 抑えても抑えても邪鬼の気配がどんどん膨れ上がってやがる!」
言葉を唾棄したのは、紫陽の中で膨れ上がる邪鬼を抑え込もうとしている魄月花だ。
そしてその漏れ出した邪鬼の気配は、もう既に櫻真たちが驚くほど巨大なものとなっている。
その巨大さは普通の人間乃至声聞力がある者でも、邪鬼の気配に飲まれて、そのまま絶命しうる大きさだ。
「葵の仕業であるのは見とったけど、まさか……神宮寺紫陽の体内に上位種以上の邪鬼を注ぎ込むとはねぇ。ホンマにエグいことする奴やね」
桔梗が目を細めて、邪鬼の気配を強める紫陽を見る。
櫻真は意識を失ったままの桜鬼を抱えて、菖蒲の張った結界の方へと退避した。
その間にも邪鬼の気配の濃度はどんどん増幅していっている。
「おい、さっきからどうなってんだ? とんでもない瘴気が溢れ出たと思ったら、今度は上位種を超える邪鬼の気配って? 紫陽の結界を破壊した時に感じたようなレベルだぞ!?」
叫ぶように櫻真たちの元にやってきたのは……陰陽院内で式鬼神の力を駆使し、櫻花が現れた際に、外へ溢れ出た瘴気に対処していた隆盛たちだ。
鬼降ろしをした隆盛、彩香、夜鷹と共に佳が護符剣を構えている。
「私たちが外で時間を費やしている間に、随分と色々な事が起きていたようですね」
「夜鷹さんの言う通り、この敷地内に結界を張り直して正解でしたね。こんな有象無象と動かれてしまったら、私たちに向かってくる式鬼神を相手するよりも骨が折れる所でした」
紫陽の身から溢れ出る邪鬼の欠片が、悪質な亡霊となって外へと飛んで行っている。それを見て彩香が苦々しい表情を浮かべている。
そして彼らの視線は再び紫陽へと注がれる。
新たな動きがあったのは、丁度その時だった。
「本当にどいつもこいつも、頭に来るな……。何故、俺の夢を壊そうとするんだ? 何故、俺の邪魔ばかりするんだ?」
怒りで震える声を出しながら、紫陽が立ち上がってきた。
そして徐に紫陽が右手を振るう。その瞬間に空気を引き裂く衝撃波が生まれ、一番近くにいた魄月花が飛び退く。
「ダメだ。完全にコイツの体は複数の邪鬼たちと一体化したみたいだ」
飛び退く魄月花が紫陽を見て、眉を顰めさせる。
「もしそうなら、奴ごと祓うしかないやろうな」
菖蒲がそう言って、指剣を構える。するとその瞬間に紫陽が菖蒲たちのいる結界へと近づき、結界の壁を手刀でいとも容易く切り裂き、目の前にいた菖蒲を勢いよく後方へと吹き飛ばしてきた。吹き飛ばされた瞬間、菖蒲の衣服が破れ、口から大量の血が溢れ出る。
「菖蒲っ!」
紫陽によって吹き飛ばされた菖蒲を、すぐさま魄月花が受け止める。
しかしそんな二人には目もくれず、紫陽が結界内にいた櫻真だけを睨みつけていた。




