巫女との記憶
目を開けて暗い空を見上げていた。
そういえば、あの時最後に見た空もこんな風な色をしていた気がする。
魁は薄らとある意識で、思い出した最初の記憶を反芻していた。
自分は人間だったとき、自分は帝の近衛兵をしている男だった。むしろそれしか能のないような男だったと思う。帝に襲い来る敵を倒すのが自分の使命であり、それ以外の事に興味を持っていなかったのだ。
けれど一人の貴族身分の女性と出会い、一目で恋に落ちてしまった。
最初は己が抱く気持ちが分からず、戸惑っていたりもした。自分とは身分の差がある貴族であり、それに加え女性はもう婚儀を終えている人だ。
武者である自分が恋して良い相手ではない。
だからその時の自分は、その思い噯にも出さない様に決意し、誓ったのだ。
相手の姿を見て踊る心を無視して、話せただけで幸せだと感じる自分を静かに殺そうとしていた。その方がいい。絶対に良い。相手にとっても、自分にとっても。そう信じて。
だからとある時にあった巫女に、自分の気持ちを看破された時は、本当に驚いた。
でもその巫女は人の心が読める巫女だった。だから己の秘密を知られた恥ずかしさはあっても怒りは感じなかった。あの時は何故感じないのか分からなかったが、今なら分かる。きっと自分一人だけでなく、誰かに自分の気持ちを知って貰いたかったのだ。
それも己自身で誓いを破ることなく、知られるという状況は一つの奇跡にも思えた。
もちろんその巫女に、己の気持ちを相手に伝えろ、と説得された時は参ったが、巫女も自分の気持ちを無視して動くわけではない。だから例え説教を受けても、自分は苦笑を零すくらいで済んでいたのだ。
しかし巫女が言っていた事は正しかった。
むしろ武者の身でありながら、何故巫女が言っている事の真意を分からなかったのか? その時の自分を考えると、本当に哀れで冷笑したくなる。
平安という字を当てられた時代。
けれどその時代は平安という字が相応しい時代ではなかった。
飢饉と病が民を遅い、貴族たち同士の奸計が渦巻き、魑魅魍魎たちが跋扈している時代。身分の格差が大きく、上の者に下の者が逆らえぬ時代。
そんな時代の中で、自分の想いが綺麗に昇華されるなど何故思ったのか?
そしてその時代の醜さを自分自身で体現してしまった。
ーー自分は仕えていた帝の命によって、自身の想い人である女性の夫を殺したのだ。
夫を殺したとき人間であり武者だった魁は必死に言い訳をしていた。
帝からの命に背けるはずがない。この男は帝の気に触れてしまった。この国で生きる以上、帝の言葉は神の言葉に等しいのだと。
そして自分はその神の言葉に従ったまで、だと。
飛んだ醜い責任転嫁だ。帝に命令された時、自分は少しでも思わなかったのか? あの男がいなくなれば、もしかすると……と。
貴族と武者という身分の差はあっても、帝の命を全うした自分だ。
任務を全うした自分への褒美として誇り高き名誉を与えられ、その名誉を持って彼女を手に入れられるのではないか?
彼女だって自分を疎ましく思ってはいないだろう、と高を括っている気持ちもあった。
だからこそ、数人の近衛兵を連れ、想い人の男を道端で斬り捨てる事を拒絶しなかったのだ。
けれど自分のそんな下心を隠し、帝のためにだと自分自身に言い聞かせていた。なんて下衆な男なのだろう? そしてその下衆な男に相応しく、ちゃんと天罰は降った。
魁が想い人の伴侶を殺してからすぐ、その女性は屋敷の部屋で毒を飲み、自死してしまったのだ。その報せを受けたとき己の身体は震えていた。いつも誰かの所為にしていた重みが一気に自分の身体へと伸し掛かってきたから。
気が狂いそうだった。あの二人を殺したのはまさに自分の恋慕だ。
ずっと腹の中に隠していた気持ちが変貌し、その恐ろしい牙を剥き出しにしてしまった。
もう誰にも許しを請う事なんて出来ない。苦しい。苦しい。苦しいっ! 自分はあの人を殺したかったわけじゃない。殺したかったんじゃない! 自分はただ、ただ……ああ、ああ!
今更どんな小綺麗な言葉を並べようと、どんなに言い訳を作ろうと、そこに何の価値もない。自分はもう、人ではない。鬼畜だ。そう鬼畜なのだ。
狂い泣きながら自分の屋敷を抜け、森を目指した。
ほとほと自分が嫌になり、誰も来ない森の中で自害しようとしたのだ。
人が寄り付かず、魑魅魍魎と獣くらいしか足を踏み入れない場所で、魁は自分の腹に刀を突き立てた。激痛が全身に走り、身体が痙攣する。刀を持っている手の力が抜けそうになる。
(俺はまともに自分の腹すら切れないのか……)
額から脂汗を流しながら、自分一人でまともな切腹も出来ない事に嘆いた。本物の武者ならば、例え一人だとしても、この痛みに耐え、立派な自害ができるはずだ。
しかし自分はそれもまともに出来ない。本当に何も出来ない。腹から血が流れ出し、身体から急速に温度が奪われていく。
(死とは、こういう物なのか……)
例えちゃんと切腹が出来ずとも、多くの血さえ流せば死ねる。あまりの呆気なさに面を食らっていた。もうすぐそこまで死が迫っている。
そう思いながら目を閉じようとした瞬間、茂みがガサガサと揺れ動き始めた。
血の臭いを嗅ぎつけた狼たちだろう。食べ物の少ない冬を越えた狼たちだ。さぞ腹も空いているだろう。
喰らいたいだけ、喰らえばいい。
鬼畜の肉など狼たちの腹の足しくらいにしかならないのだから……。
茂みを揺られる音が静かになる。そして自分の元へと近づく足音が聞こえてきた。
「……ああ、本当に貴方様は臆病な見栄張りですね」
言葉と共に自分の頬に数滴の雫が落ちてきた。その暖かな雫に朦朧とした意識で目を薄らと開ける。
するとそこには、自分の顔を覗き込み、ボタボタと大粒の涙を零す巫女の姿があった。
巫女は必死に自分を助けようとしている。生きて、と泣いている。
(こんな自分は貴方に泣いて貰う価値も、生きる価値もない男だ。それよりも早く、早く逃げて欲しい)
巫女にそう言ってやりたかったが、もう声を出す気力すら出ない。
遠くで今度こそ血の臭いを嗅ぎつけた狼たちが、仲間を呼ぶために遠吠えをしているのが聞こえている。
(頼む、頼む。早く、早く逃げてくれ)
巫女の耳にも恐ろしい狼の遠吠えは聞こえているはずだ。
このままここにいれば、狼の群れに襲われてしまう。
自分の為に泣いてくれる人をこのまま獣の餌にはしたくはない。最後の力を振り絞り、魁は掠れた声で言葉を紡ぐ。
「に、げろ……」
たった三文字を言うのが精一杯だった。本当はもっと言いたいことがある。
もっと、もっと別の言葉を。彼女だけが自分の想いを知り、話を聞いてくれた。そしてこんな醜くい自分の為に泣いてくれている。
だから、どうか、どうか助かって欲しい。
自分は義を失くし我欲の為に一人の男を殺し、想い人まで殺してしまった男だ。そんな男の道連れになって、貴方が死ぬことはない。
どうかどうか逃げてくれ。心が読める貴方なら、この必死な心の声が聞こえるはずだ。
けれど巫女は自分の側から離れようとしなかった。どんどん無数の足音が近づいてくる音がする。その音に急き立てられるように逃げろ、と念じるが、やはり巫女はその場を離れようとはしなかった。巫女が泣きながら自分に何かを言っている。けれどもう言葉を理解する事は出来ないまま、人であった魁の意識は失われた。
やはり、鬼畜に堕ちた者の願いは、最後まで聞き入れられることはないのだ、と思いながら。
「……いっ! ……かい、魁っ!」
魁の頬にポタポタと暖かい雫が落ちてきた。
(この温かみは……)
虚を見つめていた魁は久方振りに感じた温かみに、ハッと意識が現実に返ってくる。
ようやく意識が現実を見た瞬間に、身体に走る強い痛みに顔を顰め、身体の重みに驚いた。
そしてそんな自分を地面に座り抱きかかえている儚の顔を見る。
儚は自分を抱きかかえながら泣いていた。
そして泣きながら自分の傷を一生懸命に癒している。
こんなまともに主である儚の顔を見たのはいつ振りだろう? まともに見られたのは、それこそ夜鷹と戦う前の時だ。
「は、かな……? 俺は……?」
今まで自分は何をしていたのだろう?
ずっと悪い夢、そう最低な記憶の中にずっと居た気がする。
「魁は今、怪我しよってて……だから、だからジッとしとって! 絶対にウチが治すから」
「貴方はずっと、陰陽院の陰陽師の術式に掛かっていたのよ」
儚の言葉に続いて魁にそう言って来たのは、刀を構えたままの鬼兎火だ。
そしてその鬼兎火の言葉に魁は、思わず目を見張った。
自分が陰陽院の術式に掛かっていた?
「俺は、その間、何を……?」
驚いたまま魁が胸に浮かんだ疑問を口にする。すると鬼兎火がやれやれと言わんばかりに肩を竦めてきた。




