死に値する痛み
「破られた……?」
自室のソファに座りながら言葉を吐いた瞬間に、紫陽はお腹に突っ張ったような痛みを感じた。それも尋常の痛みではない。あまりの痛みに声が出せず、ソファから転がり落ちるように床に蹲る。五臓六腑の全てが膨張し皮膚を裂くのではないか? と思ってしまうような痛み。
痛みで自然と鼻から呼吸が出来ず、口で荒い呼吸をする。けれどその瞬間に、肺がズキっと一際強く痛み始めた。そして体内から大量の血が一気に逆流し、口から床へと撒き散らした。
久しぶりにこんな血を吐いた。いつぶりだろう? とそんな事を考えていると、今度は視界が赤く染まった。どうやら目の中の毛細血管が切れたらしい。耳から血が流れているような感触がある。けれどその後は、感覚が痛みで麻痺して分からなくなる。
その痛みに苦しみ悶えながら、紫陽はまだ理性を保っていた。
ーーあの術式が破られたのなら、このくらいの反動があるのは当然だろうと。
けれど、これまでにあの術式が破られた事は一度もなかった。むしろ、あの術式に閉じ込められた者で、生還者はどれほどいるだろう? 紫陽の記憶にはない。
再び逆流した血を吐き出し、その血の所為で紫陽は激しく咳き込んだ。
咳き込む度に、喉の内側がヒリヒリと痛む。鼻腔にはツンとした鉄の匂いが漂う。もしかすると鼻の内側も切れているのかもしれない。紫陽は冷静にそう判断した。
常人ならば、この痛みに耐えかね、己の身に起きている事の異常さに恐怖し、平常心ではいられないだろう。けれど、紫陽にとってこの痛みは幾度となく体験したものであり、心を乱すような、恐れを抱くような事ではなかった。
死というものが安らかな時などなく、いつもそれを迎える時は痛みや苦痛を伴うことが殆どだった。変化するとするなら、その痛みの長さくらいだろう。
本来ならこの術式の反動も死に値するような痛みだ。
なにせ、自分の体内の全ての器官にダメージが広がっているのだから。
これまでならば、紫陽はこのまま死を受け入れていただろう。
この体で培った経験や情報だけを魂に刻み、次の体に活かすのだ。
けれど、今回の場合はそういう気持ちにはなれない。なれるはずもなかった。
ようやく自分の悲願が叶ったこの時を、こんな詰まらない呪詛返しによって終わせたくない。終わらせてたまるか。と紫陽は歯を食いしばっていた。
痛む体で自分自身に治癒術を掛けつつ、この呪詛返しの反動が治るのを粘り強く耐え凌ぐ。
(ああ、良かった)
床に血を吐き、身を捻り悶えながら、それでも生きる自分。
そんな自分の姿を愛する桜鬼に見られなくて、良かったと紫陽は思う。
体裁など気にしていられる状況でないとしても、こんな無様な様を桜鬼に見られたくはない。幸いにも自分には、治癒し続けられる声聞力がある。
ならばこの痛みにも耐えられる。
(でも、耐えた後で掃除はしないとなぁ……)
吐いた血で汚れた床や敷物を見ながら思う。
さすがに自分が吐いた物のため、紫陽自身は驚きも恐怖も嫌悪もないが、桜鬼が見たら顔を顰めてしまうだろう。
止めどなくやってくる痛みに、身体が痙攣を起こす。
けれどそれでも紫陽の口元には、笑みが浮かんでいた。
暗い部屋で目を覚ました。
すぐに病院なのだと気づく。腕には点滴の針が刺されていた。投与剤がもう切れてしまっている為か、自分の血が点滴の管の中に逆流している。
早くナースコールを押して、看護師を呼ばなくてはいけない。
ナースコールは自分の顔の右側に置かれていた。すぐに右手を動かせば取れるような位置にある。けれどその少しの動きができない。身体が悪質な金縛りにあったかのように重い。右手を動かすことができない。少し離れた場所の廊下からは、忙しなく動き回る看護師と別の患者が押すナースコールがひっきりなしに聞こえている。
このままでは看護師が自分の元にやってくるのは、まだ先だろう。
(もう点滴が無いっていうのに……)
自分の事を無視して、執拗にナースコールを押す患者ばかりを気にする看護師に苛立ちを感じる。執拗にナースコールを押す患者なんてどうせ碌でもない奴に決まってる。
それなら自分の様な真人間の様子を観に来るべきだ、と穂乃果は思う。
穂乃果は口を開き、大きな声で看護師を呼ぼうとする。
複数人での相部屋の様だが構うものか。自分は必要な処置を要求しようとしているだけなのだから。
「……ーー。ァアーーッ」
口を開いて声を出そうとしても、声が掠れて出てこない。
喉にも重たい鉛が埋まっている様な重みがある。
(何これ? 冗談でしょう?)
声が出ないことに焦りを感じる。
もはや点滴が切れていることなどどうだって良いが、声が出せないのは不味い。これでは本当に自分の状態が悪化した時にどう伝えれば良いのか?
身の内から焦りと恐怖が一気に溢れ出し、心臓が早くなる。
せめて自分の意識がある内にと、穂乃果は懸命に声を出そうとするも、やっと出た声も蚊の泣くような声だ。隣で眠っている患者を起こすことさえできない。
(ちょっと、誰か!)
悲痛なる叫びを出したくても、その叫びは目から流れる涙として出て行くだけだ。
そんな時、穂乃果のベッドの脇の空間が捻れ始めた。
空間の捻れを敏感に察知した穂乃果が、ゆっくり重たい頭を動かしてそちらを向く。
穂乃果の顔がようやく横を向いた瞬間に空間の捻れから、和装した子供が現れた。肌は不気味なほど青白く、目の中に生気がない。
幽霊? とも思ったが、幽霊の気配ではない。
(何なの? コイツ?)
さっきまで混乱していた所為もあってか、上手く気配が読めない。そのため穂乃果の中で恐怖心だけが募っていく。
上級の邪鬼だったらどうする? このタイミングで? 例え襲われたとしても身動きの取れない自分ではどうする事もできない。けれど何かしなければ自分は殺されてしまう。
死ぬのは嫌だ。こんな形で死ぬなんて絶対に嫌だ。
穂乃果の目から止めどなく涙が溢れ出てくる。
するとその穂乃果に対し、子供が静かに両手を伸ばしてきた。穂乃果の顔が引きつる。けれどそんなの表情など気にせず、子供は伸ばした手の中から巻物を取り出してきた。
細く白い子供の手から取り出された巻物は、自然に宙へと浮かび上がり、穂乃果の前で開かれた。すると巻物に書かれていた文字が黄色く光り浮かび上がる。
(なに、これ?)
襲われなかった事に一先ず安堵しつつ、穂乃果は徐に宙に浮かび上がった文字を読んでいた。
読むとそれは穂乃果宛ての手紙、というより通知書のようなものだった。
浮かび上がった文字の羅列は、それほど長くない。
けれどその短文に書かれていた内容を見て、穂乃果は我が目を疑っていた。
驚く穂乃果を無視して、子供が煙のように病室から立ち去った。




