他言無用
蓮条はゆっくりと語り始めていた。
「この話は俺が小学生くらいの頃、近所に住む人から聞いた話」
とある二〇代男性教諭が出会した話だ。
梅雨が明けの、蒸し暑くなった日。
中学校の理科を担当していた男性は、授業で使う備品整理をしていた。この日に限って、補充しなければいけない備品が多く、男性教諭は一人で備品数と名称をメモし、整理していた。
夏季の日は長い。けれど長いとはいえ陽が落ちないわけではない。
備品室に差し込む陽が落ち、男性教諭は室内に電気を点けた。
「あともう少しで終わるな……」
呟いてから三〇分ほど、男性教諭は黙々と作業を続けていた。
おかげで備品整理も済み、補充する備品もメモすることができた。
額からはべっとりと汗が噴き出しており、集中力の欠いた男性教諭は酷い喉の渇きを覚えた。
男性教諭は徐に腕時計を見る。時刻はもう二一時に近かった。確か職員室に置いてある自前の水筒に麦茶が残っていたはずだ。
男性教諭は備品室を後にして、職員室にある水筒を取りに戻った。
廊下の照明の電気は落とされているため、用意していた懐中電灯を手に職員室まで歩いていた。教師に成り立ての頃は、夜の廊下を歩く事に薄気味悪さを感じていたが、もう既に慣れて昼間と変わらない速度で廊下を歩いていた。
生徒も教師もいない廊下を歩くとき、異様にその音が大きく聞こえる。
普段は全く気にならない音が妙に耳に付くのだ。
けれど男性教諭はその音に疑問を感じていた。自分が履いている靴は室内用として買った運動靴であり、静かな廊下とはいえ音はほぼ聞こえないはずだ。
しかし今はヒタヒタヒタ……という音が男性教諭の耳を打ってきた。
まるでその音は裸足で歩いているかのようだ。
音がする方へ男性教諭が顔を向ける。けれどその先にやはり誰か居るわけではない。
ただの気のせいか。
男性教諭はそう思い、再び職員室へと向かう。
再び歩き出したとき、先ほど耳にした音はしなかった。
やはり、気のせいだったのか。
内心でそう思いながら、男性教諭は自分自身を失笑した。
ーー慣れたつもりで、心の奥底では夜の学校を怖がっていたのか。そんな自分の事を考えると無性に笑えてきたのだ。
職員室に戻り、暗い職員室に電気を点ける。
そして普段自分が使う職務机へ行くが、そこに自身が思い描いていた水筒はなかった。
あると思っていた物がない事に、男性教諭は酷く驚いた。そして驚きながらも周囲を見回したり、一番大きな引き出しの中を調べたりしたが、水筒は見当たらない。
おかしい。けれど無い事はないはずだ。昼間に水筒を飲んだ記憶もあるのだから。
男性教諭はその場で暫時考えた。考えられるとしたら、誰かが間違えて水筒を持って帰ってしまったという案だ。
男性教諭が持っていた水筒は質素なデザインであり、似たような水筒を持ってきている教員は他にもいる。
きっと、間違えられたんだ。
その考えに至った男性教諭は無駄な時間を過ごしてしまった事に、短い息を吐き、そのまま帰り仕度を始めた。
荷物を纏め、職員室の電気を消す。職員室から教員が使用する出入り口までは、そんなに遠くはない。懐中電灯は点けずに、非常灯の明かりと窓から差し込む街灯の光を頼りに教員用の昇降口までやってきた。もうその時には、男性教諭の頭からは、先ほど耳にした音のことなど忘れていた。
けれどその音が、昇降口で外履きに履き代えた男性教諭の耳に再び聞こえてきたのだ。
ヒタ……ヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタ。
先ほど聞こえた時よりも大きく、先ほど聞こえた時よりもその音が速い。
もう気の所為では片付けられない程の大きさになっていた。
音がするのは暗い廊下の奥からだ。そしてこちらに向かって来ていることも分かる。
男性教諭は得体の知れない恐怖に駆られ、慌てて昇降口の扉を開いた。
しかしいつもすんなり開くはずの扉が、幾ら押しても微動だにしない。
ヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタ……。先ほどの音は続いている。
あまりの恐怖に男性教諭の歯が無様になった。
感覚的に異様な音とは、数メートルの距離しか空いていないだろう。
どうして扉が開かないのか、男性教諭は半ば泣ながら扉を押していた。
無情にも昇降口は開かない。するとさっきまで自分を追い詰めるように鳴っていた不気味な音がしなくなった。音が止んだのだ。
けれど男の直感的に後ろを振り返ってはいけない気がした。
男性教諭は後ろを振り向かず、懸命に昇降口の扉を押し続けた。半ば無我夢中で。
するとそんな男性教諭の祈りが届いたのか、先ほどまで頑なに動かなかった扉が動き始めたのだ。
ようやく動いてくれた扉に、微かだが気持ちが弾んだ。強張っていた気持ちが弛緩した。
涙を流していた男性教諭の視界の先に、見慣れた外の風景がある。
そして外へと一歩足を向けたとき、男性教諭の視線は捉えてしまった。
もちろん後ろは向いていない。向いていないが昇降口の扉の窓ガラスに反射して、その姿は写っていた。上半身が途中で無くなっている女子制服を着た下半身の姿が。
お臍から下だけのある体が、自分の後ろに立っている。
あまりの恐怖から声が出せず、荒い息のまま男性教諭は昇降口の扉を開いた。
後ろのアレは何だ? 頭の中は恐怖と疑問で一杯になっていた。
外に出た男性教諭は得体の知れない、恐ろしい物から逃げる為に全力疾走で走り逃げようとした。けれど男性が踏み込んだ瞬間。
男性教諭の頭上から何かが落ちてきた。
最初に落ちてきたのは、雫のような液体だった。空から降ってきた物に男性教諭は思わず頭上を見上げてしまった。
上を見上げた男性教諭の視界に飛び込んできたもの。最初はそれが何なのか捉える事が出来なかった。何かの塊。それが段々と近くにつれ、それが肉塊であり人の一部、上半身である事が分かった。その先ほど下半身しかなかった女子生徒の上半身。
それが自分の頭上から降ってきたのだ。
女子生徒の体の一部と衝突した瞬間、男性教諭はそのまま意識を失った。
「ーー先生、大丈夫ですか?」
低い声で名前を呼ばれ、体が揺すられる。
「えっ、あ……」
半覚醒の状態で、男性教諭は目を開ける。開けた視界に広がるのは、朝から燦々と地上を照らす太陽の光と、自分を心配そうに覗き込む、定年間近の男性校長の姿だった。
校長はいつも一番に学校へとやってくる勤勉な人で、今日も漏れずに一番に学校へやってきたのだろう。
ーーどうやら、自分はあのまま気絶してしまったらしい。
「何故、こんな所で倒れていたんですか?」
上半身を起こした男性教諭に、校長が眉を潜めて尋ねてきた。
しかし男性教諭は、昨夜自分が体験した事を話すべきか逡巡した。見たところ、自分の体に怪我らしいものはないし、赤い血で汚れてもいない。
そのため、話した所で自分が寝惚けているだけ、と思われる可能性が高い。
少し考えた末、男性教諭は昨日あった事を校長に話す事にした。
校長は真面目な性格の人だが、決して人を馬鹿にするような人間ではない。異様な話とはいえ、自分の話を聞いてくれる人だと思った。
男性教諭は昨日の概ねを校長に話す。
すると話を聞いていた校長の眉が大きく歪み、そして溜息を吐いてきた。その様子に男性教諭も不安を覚える。やはり大人が真剣に話す内容としては落第点で、自分に茶化されたと誤解されたかもしれない、と思ったからだ。
「すみません」
校長が何かを言う前に、男性教諭は頭を下げていた。
けれどそんな男性教諭に対して、校長がゆっくりと首を横に振る。
「いえいえ、貴方が謝る必要はありません。ただまた被害者が出たのだと思いまして……」
「えっ、また? またって事は私以外にも、この体験をした人がいるんですか?」
慌てて質問した男性教諭に、校長は静かに沈鬱な表情で頷いた。
「本当に困ったものです」
校長の言葉に男性教諭はただ驚くしか出来なかった。
自分の身に起きた恐ろしい経験を、他の人もしていたなんて。
「でもこの話は他言無用ですよ。教員同士での会話もお控えください。何処からか生徒の耳に入ったら大変ですから」
「分かりました」
静かな口調で校長から諭され、男性教諭は頷いた。
すると校長もそんな男性教諭の反応に満足したように表情を浮かべ、校舎内へと入って行く。
その後ろ姿を見ながら、男性教諭は小さく息を吐いた。
つい、話さない事に頷いてしまったが、他の人と話せないとなると少し惜しいような気もした。話せないという事は、あの恐ろしい体験に対して何の情報も得られない、という事だ。
あの体験は一体、何だったのだろう?
胸の中にある疑問が拭い切れなかった男性教諭は、その日の昼に学校の屋上へと上がった。
いつもは鍵も掛けられていて、特に用もない場所だ。
男性教諭は意を決して、昨日少女の上半身が落ちてきた場所へと近づいた。
勿論、そこには頑丈なフェンスが取り付けられており、そう簡単に人が落ちないようになっている。特に変わった様子もないフェンス。何の真相も見えてこないフェンス。
けれど、そのフェンスが取り付けられている部分の柱。その部分に薄っすらと文字らしき物が見えた。よく目を凝らさなければ、分からないような文字。
その文字をよく見ると、カタカナでこう書かれていた。
『タゴンムヨウ……』と。




