とある事実
魄月花が放った言葉に櫻真は、静かに目を瞬かせた。
「櫻花?」
名前を反復した櫻真に真面目な表情で、魄月花が頷いてきた。
それから魄月花が櫻真に対して、桜鬼の中にいるという櫻花について話してきた。
鬼絵巻の根幹であり、桜鬼の中にいて、その櫻花が世界に禍を起こそうとしていることを。
「じゃあ、桜鬼は俺を騙してた訳やなかったんや……」
呟いた瞬間、櫻真の体から一気に力が抜けた気がした。
ーー桜鬼は自分を騙していた訳ではなかった。
この事実が櫻真の中で、大きく深くのし掛かってくる。
とはいえ、これは櫻真にとって暗い部屋に差し込む月明かりのような光だ。
「じゃあ、今の桜鬼は魁や魘紫と同じく陰陽院に操られてはるだけなんや……」
櫻真が少しだけ安堵しながら、呟くように言う。
けれどそんな櫻真の言葉に魄月花が頷かず、渋い顔を浮かべてきた。
「それについてだけどな」
魄月花がそう前置きをして、
「桜鬼は魁や魘紫のように操られてないぞ」
という衝撃的な爆弾を投下してきた。
安堵したのも束の間、櫻真の中でさっきまでとは違う疑問が胸の中に広がる。
「桜鬼は操られてへん? えっ、どういうこと?」
動揺したまま櫻真が魄月花へと尋ねる。
「どうして桜鬼がそんな行動を取っているのか、あたしにも分からない。けど、これは確定事項だ。昨晩、桜鬼と戦ってた時に、それとなく調べたんだよ。桜鬼が神宮寺紫陽からどれほどの供給を受けているのか。そしたら……結果は驚きもんでな。供給量0。つまり今までの桜鬼は一切、神宮寺紫陽から供給を受けずに戦ってたんだ。きっとこれをここには居ない魑衛や鬼兎火が聞いたら卒倒もんだな」
溜息を吐きながら「あたしも思わず自分の感覚を疑っちまったよ」と呟いている。
いつもは飄々としている魄月花にとっても、ショックな事実だったらしい。
「でもそれがどうして、操られてへん事になるん? もしかすると桜鬼がただあの人からの供給を受け取ってへんだけかもしれんのに」
櫻真が魄月花の言葉に食い下がるように言葉を返す。
「いいや。それはない。神宮寺紫陽がどう認知しているかは知らないが、奴と桜鬼は契約すら出来てない。つまり桜鬼が供給を受けられるのは今も櫻真からだけだ」
「全然、意味が分からん」
「気持ちは分かるけどな。けど事実なんだ。取り敢えず櫻真、お前の契約書を見せてみな」
魄月花の言葉に対して、櫻真は静かに首を横に振った。
首を振る櫻真に魄月花が訝しげな表情を浮かべる。
「俺の契約書はない。昨日、俺の所にも桜鬼たちが来て、契約書を取られてしもうた」
「? そんな事ないはずだ。それこそ椿鬼がその件を影で見てたんだ。もしお前の契約書が本当に奪われそうになってたら、椿鬼が動かないはずがない。桜鬼も契約書の場所を知らなかったなくて、取れずに終わったんじゃないのか?」
「いや、そんな事あらへんよ。だって桜鬼は契約書がどこに仕舞われてるか知ってはる」
つまり桜鬼が気絶した櫻真から契約書を奪えないはずがないのだ。
「けど、本当に椿鬼からそんなヤバい話は聞いてない。櫻真も椿鬼がどういう奴かは知ってるだろ? アイツの一番の取り柄は真面目さだぞ? それこそ櫻真は契約書が無い事を確認したのか?」
片眉を上げて尋ねてきた魄月花の顔にも、少し焦りの色がある。
万が一の事を考えているのだろう。
櫻真は焦る魄月花に促されるまま、小さな結界内に繋がる小さな点門を開いた。
そしてあるわけがないと思いながらも、点門の中に櫻真は手を入れた。すると手の先に無いはずの物の感触がした。櫻真は触れた感触に驚き、そのままソレを掴んだまま小点門から手を出すと、そこにはしっかり桜鬼との契約書が掴まれていた。
櫻真の掴んでいた契約書を見て、魄月花が大きな安堵を吐く。
「櫻真、心臓に悪い事言うなよ。さすがに焦ったぞ? じゃあ無事に契約書が取られてなかった所で、契約書を開いてみ」
櫻真は狐につままれた気分のまま、桜鬼との契約書を開く。
すると櫻真の契約書の中には、前見た時と同じ様に桜の木が描かれており、そこに鮮やかな紅色と青色が加わっていた。
「ーーやっぱり、契約書も黒く塗り潰されたりしてないな」
櫻真の開かれた契約書を見て、魄月花が確信を得たように頷いている。
しかし櫻真からすれば、魄月花が何を確認しているのかが分からない。
そのため櫻真が眉間に皺を寄せながら、魄月花へと尋ねた。
「何を確認してはるん?」
「ああ。櫻真にさっき言っただろ? 桜鬼は神宮寺紫陽と契約をしてないって。それの確認だよ。操られてる従鬼の契約書は、黒く塗り潰されてたんだよ。けど、お前の契約書はそうなって無いだろ?」
魄月花が櫻真の契約書を指差しながら、そう説明してきた。
確かに櫻真の契約書は黒く塗り潰されていない。
つまり魄月花が言った通り、桜鬼は紫陽に操られておらず、自らの意志で陰陽院についているということだ。
「これを櫻真に訊くのは申し訳ないんだが、桜鬼が向こうにつきそうな理由に心当たりはあるか?」
魄月花に尋ねられ、櫻真の頭の中に『櫻真の隣を歩くことはできない』という桜鬼の言葉が浮かんで来る。微かに身体を強張らせた櫻真の様子を、魄月花は見逃してはいなかった。
「……何か思い当たる節がありそうだな」
魄月花にそう言われ、櫻真は静かに頷いた。
「ホンマにそれが要因かは分からへんけど……」
そう前置きをして、櫻真は桜鬼が向こうに行く前の話をした。
学校で少し一悶着があったこと、それから桜鬼との言い合いの粗筋を話す。本当は詳細を話した方が良いとは思うが、それを話すには自分の心が邪魔をして言えなかった。
それに魄月花にあの時のことを話しながら、櫻真が大きな後悔もしていた。
「俺があの時、怒らずに桜鬼の話をして聞けていたら、こうならなかったかもしれん」
沈んだ声音でそう言いながら、櫻真は頭を下げる。
「なに、櫻真が頭を下げることはないさ。あたしが櫻真の話を聞いた限り、今回は桜鬼の方に非があると思うぞ? 勿論、その桜鬼に乗っちまった櫻真にも非は多少なりとあるけどな」
「そう言って貰えるのは有り難いけど……ごめん、なんか気持ちの整理がつかへん」
櫻真の言葉に魄月花が訝しげな表情で、頭を手で掻いている。
「喧嘩相手に気後れする気持ちは分かるけどな。今回の場合、お前がそんな気を重くさせる必要はないんだぞ? それこそあたしからすれば、桜鬼の方が従鬼の役目を投げ出して、よく分からない我儘を押し通してる様にしか思えないしな」
魄月花の言葉は櫻真を気遣うというよりも、客観的に見た見解を話している様子だ。
しかし今の櫻真の心境的に、その言葉を聞いても頭を上げる事は出来ない。
考えてしまうのは、自分が桜鬼に嫌われたという痛い事実だけだ。
ーーあんな所を見られてしまったから。
櫻真の脳裏に、祥とキスしてしまった時の事が蘇る。
そうでなかったら、桜鬼が紫陽の所へ行ってしまうわけがない。
しかしどんなにあの時の事を後悔しても、あの時の事をなかったことには出来ない。
それに加え自分は……。
病室での桜鬼とのやり取りを思い出し、櫻真は堪らずに奥歯を噛み締める。
「ーー俺は、桜鬼と顔を合わせる事は出来へん」
言葉を絞り出した櫻真に、魄月花が複雑そうな表情を浮かべてきた。




