使いこなせない者はーー
目を開けると、間近に見える床が幾重にも見える。目がチカチカする。
ーーああ、このまま自分は……。
起き上がることすら出来ず、穂乃果は身体を痙攣させたまま倒れていた。
しかしそんな穂乃果の耳元に微かだが、足音のような物が聞こえてくる。やけに大きく聞こえるため、最初はその音を幻聴かとさえ思った。
けれどその音は幻聴ではなかった。
床から聞こえる足音を止むと、次に穂乃果の耳朶を打ってきたのは自室のドアをノックする音だ。
「鳴海さんっ! どうしました? 鳴海さん?」
ノック音の後で焦った様子の彩香の声が聞こえてきた。
どうやら穂乃果の叫び声を聞きつけてやってきたらしい。これは自分に舞い込んできた蜘蛛の糸だ。穂乃果はその糸を強く両手で手繰り寄せるように、一生懸命に叫ぶ。
「た、助けて……!」
やはり穂乃果の声は掠れていたが、部屋の前にいる彩香に届く音量だった。
「どうしました!?」
「からだが動かないの……」
勢いよくドアを開けて、部屋に入ってきた彩香に穂乃果が答える。
床に倒れた穂乃果の姿に彩香が顔面を青白くさせてきた。
「鳴海さん! しっかりしてください。今、応急処置をしますから!」
俯せに倒れていた穂乃果を彩香が抱き起こし、詠唱を始めた。
彩香が詠唱を終えると少しだが身体の中央に暖かさが戻り始めてきた。そのためか先ほどよりも少しだけ身体の痺れが緩和されていく。
とはいえ、痛みと混乱で擦り減っていた穂乃果の精神は限界を迎えていた。
それに加え彩香による応急処置を受け、危機を脱した安心感。それらが一気に穂乃果へと降り掛かり、穂乃果の彩香に事情を深く話せぬまま、ゆっくりと目を閉じていく。
目を閉じながら、穂乃果は内心でほくそ笑んでいた。
ーーやっぱり、自分はついている、と。
(何がどうなっているの?)
陰陽院の寮から救急車で運び出された穂乃果を送り出し、彩香は大きく眉を寄せていた。
「彩香が穂乃果の異変に気づいてくれて、良かったよ」
眉を顰める彩香に対し、言葉を残したのは一緒に対応した紫陽だ。
紫陽ならば、先ほどの穂乃果に何が起きたのか分かると思い、助けに呼んだのだ。
「私としても良かったです。ただ……どうして鳴海さんは、あんな事になってしまったんでしょう?」
「……彼女があんな状態になってしまったのは、声聞力の急激な消費に寄るものだ。穂乃果が使役させている従鬼は大食らいだからね。穂乃果だと完全にキャパシティーを超えているんだよ」
「つまり従鬼を使役させているから、あんな状態になってしまったという事ですよね? なら、早く従鬼との契約を辞めさせるべきです! いくら強力な式鬼神とはいえ、あれ程の負荷が掛かってしまうのは危険過ぎます!」
部屋で倒れていた穂乃果を脳裏に思い浮かべながら、彩香が紫陽へ訴える。
(さっきの鳴海さんを見た後なら……)
この計画の立案者である紫陽も考え直してくれるかもしれない。
そんな淡い期待をした彩香だったが、横にいる紫陽の反応は薄いものだった。
「それはどうだろう?」
「ーーどういう意味ですか?」
予想外の紫陽の言葉で彩香に動揺が走る。
「従鬼を使役している事事態が危険ならば、僕や夜鷹さんも穂乃果と同じ様になっているはず。けど僕たちは穂乃果の様になっていない。これを踏まえて考えると穂乃果が使い方を誤ってしまったと見る方が正しいだろうね」
確かに紫陽の言っている事は分かる。分かるがしかし……。
「十二神将の式鬼神を使役させているときは、こんな事にはなりませんでした」
「それは穂乃果のキャパシティーを十二神将が超えていない、という事だよ。うん、それを考えてもやっぱり従鬼の力は強い。本当に頼もしい限りだ。今にして考えると穂乃果より隆盛とかが使ってくれていれば、もう少しマシだったかもしれないね。やれやれだ」
小さく溜息を吐いた紫陽の言葉は「もっと上手に使える人に、使える道具を与えたかった」というものだ。そんな紫陽の言葉に彩香は愕然としてしまった。
彩香が言いたかったのは、そんな事ではない。
彼女が言いたいのは、穂乃果の命が危険に陥ったこの状況をやめるべきだと言いたいのだ。
(それに、さっきの言い方だとまるで……)
従鬼を使いこなせなかった穂乃果が悪いような口振りだった。
(ーー紫陽さんの考えがまるで分からない)
これまで頼りになる存在だった紫陽が、まるで知らない別人になったかのようだ。
彩香は何事もなかったかの様子で、陰陽院の方へ戻っていく紫陽を見ながら、静かに固唾を吞んでいた。
(もしかして、アレが本当の紫陽さん?)
彩香の脳裏に泣く桜鬼を見た時に、紫陽が浮かべた表情を思い出す。
あの時と今を考えると、紫陽という人間の本来の姿が今の紫陽なのかもしれない。
そう。そうなると自分たちが信頼し頼っていた紫陽は、全て上面だったという事になる。
ーー心配性な自分の嫌な妄想だ。
こんな風に切り捨てられたらどんなに良いか? けれど彩香の中で紫陽に対する不信感が消えることはない。
先ほどの言葉や前に見た表情が頭の中に浮かんでは、どんどん彩香の中で嫌な気持ちが膨らんでいく。もはやこの気持ちを一人で消すことは、彩香には出来なくなっていた。
(……このまま何もせずにいる事は出来ません)
膨らんでしまった気持ちが萎むのを待つことはできない。
ならば自分も動き出さなければ。
「まずは隆盛と祝部君に相談して……」
今後の方針を彩香が呟いていると、
「百瀬、ちょっとええ?」
丁度、タイミング良く佳が彩香の元へとやってきた。
「はい、構いません。実は私も祝部君と隆盛に話したい事があるんです」
「話したいこと? うん、分かった。ならすぐに住吉を呼んで話をしようか?」
疑問の表情を浮かべた後で、頷いた佳が彩香と共に隆盛の自室へと向かう事になった。
「住吉の奴、さっきから端末を鳴らしても、式鬼神を飛ばしても反応がないんよ」
眉を顰めて「何かあったんやろうか?」と訝しげな表情を浮かべている。
その佳の顔には、自分とも似た不安感らしきものが現れていた。
一瞬、佳が抱く不安と自分が抱く不安が混ざって、彩香の表情が強張る。
けれどそれを彩香は半ば無理矢理に頭を振り、一瞬だけ払い退けた。
「心配しなくても大丈夫です。隆盛は休みの日は大抵起きるのが遅くて、誰かが起こしに行くまでは寝ているですよ」
「そっか。ならええんやけど」
彩香の気遣いに気づいた佳も苦笑を浮かべて頷く。
とはいえ、今の言葉は気休めであり、不安を拭えたのは薄い表面だけだ。
そのため自然と佳と彩香の足取りは早足となっていた。




