仮契約
魄月花と話しをするため、櫻真は自室のベッドに腰を下ろしていた。魄月花は櫻真の部屋に置いてあるソファに足を組んで座っている。
「話したいだけだから、横になってもいいぞ?」
櫻真の事を気遣ってか、魄月花がそう声を掛けてきた。
横になる気分になれず、櫻真は魄月花の言葉に首を横に振る。すると魄月花が仕方ないか、と言わんばかりに軽く肩を竦めさせた。
「ーーそれで俺に話っていうのは?」
そう櫻真が魄月花に話を切り出すと、魄月花が「ああ」と相槌を打ってから、真面目な表情で口を開いてきた。
「あたしの話を簡単に言うと頼み事だ」
「頼み事?」
反復した櫻真に魄月花がゆっくりと頷いてきた。
「あたしと仮契約をしてくれないか? 菖蒲たちが神宮寺紫陽の結界から出てくるまで。菖蒲と霊的交換は出来てるが、声聞力の受け渡しまでは厳しくてな。主である菖蒲からの供給がない状況だと、あたしは情けない話だが雑魚従鬼だからな。有事があったら、それこそ不味い」
「魄月花の言うてる事は分かるよ。けど、そんな事が出来はるん?」
櫻真は俄かに眉を顰めて尋ねる。
魄月花が契約を結び直す術式を知らないとは思わない。それこそ、魄月花は昔からの記憶を有しており、術者としての知識は櫻真が知る誰よりも持っているだろう。
けれどそれを知っていても、魄月花にそれを行使するエネルギーがないのだ。
それこそ紫陽は、鬼絵巻の力を使って桜鬼たちと契約している。この事を考えると、今の魄月花で似たような術式を使うのは厳しい気がしたのだ。
だが櫻真の疑問を振り払うように、魄月花がそれに答えてきた。
「できるさ。それこそ元々あたしは鬼絵巻を作った天才術者だぞ? 神宮寺紫陽が知らない抜け道を知らないはずないだろ? 本契約ってわけでもないしな」
「そっか。なら、ええんやけど……」
「何か含みのある言い方だな? 気掛かりなことでもあるのか?」
「いや、含みなんて何もないけど。ただ、何となく……」
魄月花からの訊き返しに、櫻真は小さな声でそう答えた。
しかしそれはただの誤魔化しだ。自分の胸の中に掠めた『魄月花と契約をしたら、桜鬼との契約はどうなるのか?』という疑問を掻き消すために。
自分を騙していた桜鬼との契約がどうなろうと、自分にはどうだって良い。むしろ昨日の病室で桜鬼に契約書を取られているのだ。今さらそんな事を気にしたって無意味だ。
そんな考えが櫻真の胸の中に、ポンポンと浮かび上がり、最初の疑問を下へと押しつぶしていく。
「櫻真がそう言うんだったら、さっさと始めるぞ。厄介事って言うのは何の合図もなしに、やってくるもんだからな」
ソファに座っていた魄月花がそう言いながら、立ち上がってきた。
ぼんやりと『厄介事は合図なしにやってくる』という言葉が櫻真の耳に残っている。
何故だろう? と一瞬だけ疑問に思ったがすぐに考えるのをやめた。
目の前にやってきた魄月花が櫻真の額に右手を添え、櫻真の知らない術式を唱え始めたからだ。櫻真はその声に集中するように目を閉じて、何も考えないようにした。
魄月花が詠唱していたのは、一、二分ほどの長さで、それを二つほど詠唱して魄月花は櫻真との仮契約を済ませてきた。
「よし、これで無事にあたしと櫻真の仮契約は完了だな。いやぁ、櫻真の声聞力が想像以上に多くて良かった。これなら何かあってもこの屋敷ぐらいは普通に守れそうだ。もし櫻真と契約できなかったら……浅葱の奴が物は試しに、斉彬ってやつを呼ぶとか言い出しててな。大変だったよ。そいつらに任せるってなると、あたしら従鬼の立つ瀬が無くなるからな」
櫻真と契約を結んだ魄月花がそう言いながら、快活な声で笑ってきた。
そんな魄月花に対して、櫻真は「ホンマに良かったわ」と言いながら薄く笑うしかできなかった。魄月花と契約しても、さっきまでと特に変わった所はない。
桜鬼と契約した時のような不思議な感覚に襲われる事もなければ、異様に疲れることもない。本当に魄月花と契約したのだろうか? と思ってしまう程だ。
しかし櫻真と契約を終えた魄月花は一安心したような顔をしている。
(こんなに、あっさりしてはるもんなんやな……)
桜鬼と契約した時の不思議な感覚との差異に、櫻真は微かに驚いていた。
だからだろうか?
一仕事を終え、両腕を天井の方へと伸ばす魄月花に向かって、
「菖蒲さんと契約する時と今のでは差異はあるん?」
と訊いてしまったのは。
訊いた後でしまったと思い櫻真が口を結ぶが、尋ねられた魄月花本人は何気ない様子で答えてきた。
「まぁ、差異はあるよな。菖蒲との契約は仮初めじゃない分、血は貰わないといけないし。どうしてだ?」
「……前に契約した時よりあっさりしとったから、少し気になって」
一瞬迷ったが、櫻真は白状するように魄月花の問い掛けに答える。
すると魄月花が少し目を細めてから、口を開いた。
「あっさりな……。その違いっていうのは血を渡す以外に何かあったか?」
「血を渡す以外なら……」
櫻真は魄月花から視線を記憶の中へと移す。櫻真の視界に広がるのは、特殊な結界内にある桜の木の下で眠る桜鬼の姿だ。
櫻真はそこで桜鬼を起こし契約したのだ。その時に感じた不思議な感覚は、今でもよく覚えている。
「桜鬼と契約する前に白昼夢を見たあとに……家の蔵から契約書を見つけて、そこからまた特殊な結界の中に入って、そこで桜鬼と契約した。白昼夢では桜鬼を見たとき、桜鬼は誰かの名前を言わはって起きはるんやけど、実際はそうならへんかったけど」
口に出して記憶を回想する。
あのとき、自分は白昼夢と同じ流れになるのを強く拒んだ。
誰かの名前を呼んだ桜鬼は涙を流したが、実際に涙を流したのは櫻真の方だった。
小さいようで大きな差異。
「実際はどうなったんだ?」
「実際は桜鬼が起きる前に、俺が桜鬼を起こしてしもうた」
「そうか。あーー、なるほどな。いや、なるほどでもないか」
櫻真の言葉を聞いて、魄月花が自身の考えをまとめ始めている。けれど呟きを聞いているだけの櫻真からすれば、魄月花の言葉の意味が分からない。
(魄月花には何か思う所があるんやろうか?)
そう思いながら、櫻真は不安な視線で魄月花を見ていた。




