儚い夢など
「簡潔に言うとね、桜鬼。僕、いや俺がそれをしたのは君を、君を好き勝手に使う奴等から解放する為なんだ」
そう言って紫陽が桜鬼の綺麗な髪を手で優しく撫でた。
桜鬼は紫陽の言葉に心底驚いたように目を見開いてきた。
「妾を、解放? ふっ……。貴様は何を申しておる?」
「これは本音だ。桜鬼、君を一目見た時から、俺は君の虜になった。君の全てを手に入れたくて仕方なかった。けれどあの頃の俺は、君に見てもらえる程の男じゃなかった。そう俺はどこにでもいる見窄らしい民草だったから。でも君が居たのは貴族社会が崩壊しても、時の権力者の袖下で地位を失墜させる事のなかった䰠宮家のお屋敷だ。会えるはずがない」
その時の事を思い起しているのか紫陽が、寂しげな笑みを浮かべてきた。
当時の自分を思い浮かべ、自嘲しているのかもしれない。
「それでも僕は君を諦めたくはなかった。だから俺は君に会える自分になる為に、どんな事でも投げ売ろうと誓ったんだ」
紫陽は語る。
何の肩書きすら持っていなかった自分は、まず武士になる為に体を鍛え始めたこと。
己の武力を認められれば、武士になれるからだ。
けれど現実はそう簡単に上手く行かなかった。元々の紫陽に武芸の才はなかったのだ。そのため、紫陽は武芸ではなく勉学に励むことにした。
武芸が軽んじられた訳ではないが、武士も政治をやる時代に入っていたため、実務能力も必要となっていたのだ。
「その頃は桜鬼がまさか従鬼という存在だとは思っていなかったからね。自分でも時間を無駄にしていたとは思うよ。それに実務要員の武士だと護衛任務は中々回ってこないしね」
自分の失念を恥じるように、紫陽が笑う。
「だから䰠宮の屋敷に最初に忍び込んだ時は、本当に肝が潰れる思いだったよ。その当時も知識として䰠宮家が陰陽寮の陰陽頭をしている家であることは知っていたから、見つかったら怪しい呪いでも掛けられると思って」
「それでも忍び込み、貴様は妾が従鬼である事を知ったというのか?」
紫陽の話を聞いていた桜鬼が紫陽に尋ねる。桜鬼からの質問に紫陽が静かに頷いた。
「そうだね。あの時は三度目に䰠宮の屋敷に潜り込んだ時だった。丁度、君とその主が一つの鬼絵巻を回収している所を見てしまってね。あの時は圧倒されたなぁ。その力を間近で見るまでは、妖の類なんて全く信用していなかったから。けれど俺はその時に悟ったんだ。どんなに武士の肩書きを手に入れても、この力を手に入れなければ、君の隣にはいけない、と」
それから紫陽は䰠宮の蔵から陰陽に関わる書物を盗み取り、そのまま人里離れた山中の中へ隠れ住み、陰陽道の研究に明け暮れたそうだ。
「力を手に入れる為に、人道から外れた事も数多くしたよ。他者から見れば、あの時の俺はすでに人ではなかっただろうね。でも後悔はしてないよ。俺自身、今は人の形は取っているけれど、人でいる事に価値なんて持ってないんだから。それにそのおかげで俺は今の肉体転移術を得ることができたわけだしね」
紫陽がそう言って、肩を竦めさせる。自分の記憶の奥底に浸っている様子だ。
そんな紫陽の姿を桜鬼は無言のまま見ていた。そしてどこか呆然としている様にも見える。
そしてそんな紫陽の過去話を聞き、櫻真は聞くに堪えない気持ちになっていた。
何故、自分がこんな状態で聞きたくもない話を聞かなくてはいけないのか?
紫陽は桜鬼の方を見つめ、「従鬼を道具としか見ていない䰠宮から、桜鬼を解放できる」と歓喜の言葉を並べている。
その紫陽の姿はさながら、悪役に捕まるヒロインを助けに来たヒーローのようだ。
櫻真はその様子を冷ややかな気持ちで見つめていた。
(……アホらしい)
櫻真は心の中で毒吐いた。
紫陽の言葉を聞きながら、視線を下に向ける桜鬼。その姿はどこか潮らしく見えた。
そんな桜鬼の姿に、櫻真は強い苛立ちを感じた。紫陽の言葉に感銘でも受けたのだろうか? 散々自分を騙しておいて。
いや、それが桜鬼のやり口なのだ。
怒りが櫻真の中で膨れ上がり、それが声聞力へと転換される。
こんな寒い茶番劇にいつまでも付き合っていたくない。見ていたくない。その思いを現す様に櫻真の中で脹れ上がった声聞力が、紫陽の術式を半ば強引に解く。
そんな櫻真の動きに気づいた紫陽と桜鬼が視線を向けてきた。
視線を向けてきた二人に対して、櫻真は怒りのままに火業の術師を放っていた。
「やれやれ。大人しくしていれば良いのに……」
紫陽が肩を竦めて指剣を構えた。
けれどそれを先に桜鬼が櫻真の術式を刀で斬り伏せ、そのままベッドにいる櫻真へと刃を突き立てる。突き立てられた桜鬼の刃は櫻真の首の横を突き刺していた。
櫻真の上に跨る形で刃を突き立てる桜鬼を、櫻真が鋭い視線で睨む。
「……退いてくれへん? 邪魔やから」
「では、妾の申し出を受け入れてもらう。鬼絵巻を渡して貰おう」
櫻真の棘のある言葉に対し、桜鬼が無表情で自分の要求を口にしてきた。
「鬼絵巻を手にして、今回こそ災厄を起こす気なん?」
櫻真が淡々とした声音で桜鬼に尋ねる。その瞬間、無表情だった桜鬼の表情に歪な波紋が広がった。眉間に皺を寄せ、怪訝そうな表情を浮かべている。
「今さら、そんな白々しさなんていらん。俺はもう桜鬼が俺を騙しよった事を知っとる」
櫻真が桜鬼に鋭い視線で睨みながら、言葉を叩きつける。
するとそんな櫻真の言葉に対して、桜鬼が目を見開いてきた。けれどすぐに表情を戻し、肩を揺らして笑ってきた。
「何を申しているのかは分からぬが、鬼絵巻と妾たちは共にある。うむ、確かに妾たちは災厄ではある。そう捉えることもできよう。では、貴様は鬼絵巻をどうする? 放っておくことも出来ぬのであろう? なら、妾たちに鬼絵巻を渡した方が良いのではないか?」
紫陽に操られているとはいえ、桜鬼は他の二人と違い自我がある。それを踏まえて考えれば、今の櫻真に対する桜鬼の言葉は本心に近いはずだ。なにせ、今の桜鬼にとって気を使うべき主は櫻真ではなく、紫陽なのだから。
ついに本性を出してきた桜鬼に対し、櫻真は強い憤りを感じた。
自分が大切にしていたものが一気に破壊された様な、そんな気分だ。でもだからこそ、櫻真は何もかも吹っ切れて動くことができた。
「ふっざけんな!!」
櫻真が一声上げて、渾身の力で桜鬼の腹を足で蹴った。櫻真に腹を蹴られた桜鬼の身体が少し横へと体制を崩す。櫻真はその隙にベッドから転がる様に抜き出た。
「紫陽! 奴を抑えろ!」
床に転がった櫻真を見た桜鬼が紫陽に叫ぶ。紫陽はそんな桜鬼の言葉に、やや眉を顰めながらも術式を唱え始めた。
しかしそんな紫陽に対して、櫻真も反撃を繰り出していた。
「呪禁の法の下、我に災いなす者の動きを封じよ! 急急如律令!」
櫻真の術式が展開された瞬間、紫陽の影が紫陽自身の身体を縛りつける。その術式は紫陽だけではなく、桜鬼にも発動されていた。
けれど桜鬼はその術式の展開領域から高速で移動し、櫻真の背後に立ってきた。
「……本当に甘いのう。その甘さは惨すぎる」
桜鬼の声は耳元から聞こえてきた。櫻真の背中越しに桜鬼の身体の温度が伝わってきた。
そしてその体制のまま、桜鬼がボソリと呟いてきた。
「もはや、儚い夢など終わってしまったのだ」
小さな声の桜鬼の言葉が聞こえた瞬間、櫻真の背中に強い衝撃が走った。桜鬼が手を櫻真の背中に当て、衝撃波を放ってきたのだ。
衝撃波を受けた櫻真は為す術もなく、そのまま意識を失ってしまった。




