十年の約束
「ここを出るんだ」
そう言われた時、リーフはアスワドがどこかに行ってしまうのだと直感した。
戻らないから、リーフひとりを安全地帯に追い払うのだと。
「……っ、待って!」
「どうした」
わずかに焦りと苛立ちの混じった表情を見て、直感は確信に変わった。
「わ、忘れ物がある……!」
この場に残る口実をとっさに考える。
「部屋に取りに行きたいものが……」
「わかった、届けさせる」
届ける、ではなく届けさせる。
「だ、だめだ!!」
「リーフ」
「は、恥ずかしいものだから!アスワドが持ってきて。他の人は嫌だ!!」
アスワドはすごく困った顔をした。が、このままではリーフが動かないと思ったのだろう。
「……わかった」
しぶしぶといった感じだが約束した。
約束したからには守ってくれる、そういう人だと知っている。昔からそうだ。
「坊主、港町が見えてきたぞ」
「その坊主ってのそろそろやめてくれない?奴隷長」
薄闇の中ラクダの背にしがみついていた人影が、外套を引き下げながらこぼす。若草色の髪が覗いた。
「お前もその奴隷長ってのやめろよ、せめて隊長と呼べ」
リーフはアスワドの部屋から運び出されるベッドの残骸と一緒に、木箱に入れられて王都を脱出していた。
慣れないラクダに揺られる旅にもようやく慣れてきた。
前を行く行商人に扮した男のラクダに曳かれて、のんびりと進んでいく。
小雨に降られながら砂漠を旅すること4日目。地平から岩山が迫り、地面は下り坂になって海沿いの低地へと向かっている。
雲の切れ目から日が差し込み、気が付けば短い雨の季節に芽吹いた新緑が足元で揺れていた。
「町の門が開くまで少し時間がある。ここらで休憩しよう、大将が追い付いてくるかもしれねえ」
夜明けまであと少し。
男は率いる隊商のメンバーに声をかけ、岩陰にキャンプを張る準備に取り掛かった。リーフもラクダを降りて繋留し、火おこしの手伝いをする。
この隊商を構成する男たちの多くは、王宮を離脱した元奴隷たちだ。
アスワドは中庭の植物などを資源に食材や薬を流通させ、金銭や人脈、時には弱みを握って王宮内外に連絡網を張り巡らせていた。彼らはその中で年季を肩代わりされ、役人の目こぼしで王宮を抜け出した者たちだ。
リーフを木箱に入れて運び出し、買収した隊商に潜り込み、国外からの船が集まる港町に向かうことになっている。その先はそれぞれの自由だ。故郷に帰るも、海の向こうへ渡ることも。報酬はアスワドが盗み出した首輪の鍵だった。
眼下には城壁のめぐらされた港町が黒い影となって横たわっている。目的地は近い。
「アスワド、抜け出せたかな……」
振り返っても一面の砂の大平原。自分たちの他に動くものは見当たらない。
アスワドの逃亡をハディードが見逃すはずもない。
それでもきっと来てくれる。
リーフは知らず手を組んでいた。祈るような気持ちで地平線を見つめる。
ここで合流できなければ、リーフは船に乗って先に国外へ逃れるよう手配されている。身を守る手段のないリーフには、指示に従うほかない。
朝日に先行して空が明るくなり、世界が色づき始める。
「わぁ……!」
「お、"幻の花畑"だな」
歓声を上げるリーフに、男たちも設営の手を止めて自然の奇跡に見入る。
砂地はいつの間にか七色に彩られていた。色とりどりの花のつぼみが、競うように開き始める。雨季の砂漠に現れる、幻の花畑だ。
同じような景色を、リーフは見たことがある。
十年ほど前のことだ。
「おかーさん、おとーさぁん……!どこぉ……」
新緑に包まれた丘陵地帯で、リーフは迷子になっていた。
両親の待つ家に帰りたかった。
知らない女の人の家に預けられ、両親はたまにしか顔を見せない。
捨てられたのだと思った。
しばらく歩けば家に着くと思ったのに、森を越えて、ふたつみっつ丘を越えてもちっとも見慣れた街並みは現れない。それどころか雨に降られてしまった。
途方に暮れてしゃがみこんだ岩陰で、「それ」に出会った。
暗闇に光る、青い目がふたつ。一抱えほどもある体は、岩陰の色に溶け込んでいる。
「……きれいだね」
何の生き物かはわからなかったが、じっとこちらを見つめる目に引かれてつい手を伸ばした。
「……っ、シャー!」
「わあ」
鋭い爪が指先をかすめる。
「ネコちゃん?」
「シャァ!」
「ひゃっごめんなさい!」
鋭い牙で威嚇されて首をすくめる。
「ふ、ふええ……おかあさああん……」
びくついてめそめそしだしたリーフに、しばらくして猫は気まずそうに鼻先を寄せてきた。
岩陰から出てきたのは、真っ黒で一抱えもある大きな黒猫だった。
猫はをぐいぐいと首もとを押し付けてきた。赤い首輪の胸元で、銀色のタグが揺れている。
何か書いてある。
「……えーと……『い』?」
「フシャア!」
「びゃあっごめんなさい!あ、『に』だ!」
「ミャ」
黒猫がはじめて威嚇音以外の声を漏らす。
かしこそうな猫だった。
「ええと…『に』の次が……『み』?『む』かな?」
「ミャ」
「『ぅ』」
「シャー」
「『ゆ』」
「シャ」
だんだんと黒猫の耳は下がり、返事も投げやりになってきたのがリーフにもわかる。
「『に』『む』なんとか」
「ハァー」
「あ、ため息ついた!」
「フンっ」
黒猫は岩陰を飛び出す。
「あ、まって!……わあ……」
しばらく雨宿りしている間に、世界は一変していた。
そこは一面の花畑だった。
「"うみ"ってこんなかなあ」
その多くが、青い花だ。
そして、振り返れば同じ色の一対の瞳。
「君、お花畑の妖精さん?」
「……フッ」
鼻で笑われた。
「もうっ!」
「ミャウ」
ついて来い、とでも言うように黒猫は振り返る。花畑と同じ、青い瞳。
「ねえ、また一緒にお花畑見に行こうね」
「……ミャウ」
別れ際、黒猫は小さく頷いたように見えた。
その時の花を一輪だけ、リーフは持ち帰って押し花にした。
迷子になった時のお守りに、そして、いつかまた会えるようにと守り袋に入れた。
青い花畑が幻と言われるほど珍しい現象だということを知ったのは、ずっと後だ。
母の出産の間預けられていた伯母の家を久方ぶりに訪れ、ふと蘇った記憶を尋ねた時のことだった。
「そういえば、毎年雨季になると王都から立派な軍人さんが村に来るのよ」
獣人のいい男なのよー、とうっとりと伯母はため息をつく。
都と違って辺境のこのあたりでは獣人と人の間には身分差も偏見もない。人手が圧倒的に足りないのも要因の一つだろう。
その獣人は、何もない村でのんびり過ごすはずの休暇を村人の農作業の手伝いで終わらせて帰っていくという。
「青の花畑、また見たいんですって。でも一斉開花って十年に一回くらいしか起こらないのよね」
今、あの青い花のお守りは手元にない。
でもきっと迷子にならないよう、導いてくれるはずだ。
「おい、あれ!」
誰かが叫んだ。
リーフは顔を上げる。
地平の彼方に、小さな影が一つ。
見る間に大きくなるそれは、疾走する騎影だった。
馬上の人影の頭の上で、髪と一緒に尖った耳が揺れている。
「アスワドっ……!」
リーフは駆け出した。
「どうどう、どう……止まれ」
手綱を引いた馬が止まりきるのを待たずにアスワドが身軽に飛び降りてくる。
夜通し駆けてきたのか馬も人も、汗とほこりにまみれていた。
構わずリーフはアスワドに飛びつく。
「お帰り!!」
「……ただいま」
眩しそうに目を細めて、アスワドはリーフを抱き止めた。
朝の光に輝く青い海には、白い帆を掲げた船がいくつも浮かんでいる。
初めて見る景色を並んで見下ろす。
「本物の海だね」
「ああ。……これ、返すよ」
アスワドが差し出したのは、リーフの『忘れ物』だ。
これを受け取れば約束は果たされる。アスワドも、リーフもどこへ行こうと自由だ。
「しばらくこの国は荒れる」
受け取りを躊躇っているリーフに、アスワドは告げる。
第四王子が留学先から戻ってくるという。誰が王権を手にするにせよ、国内をまとめるには数年かかる。
「ほとぼりが冷めるまで、国外で過ごした方がいい。知り合いの店で働けるよう手配してあるから……」
「アスワドも一緒だよね?」
リーフがその先を遮るように尋ねてきた。
「俺は……」
目を落としたのは、奴隷の身分になる時に筋を傷つけられた両手。武官として最前線で戦うことはできない。
新たな主人を見つけ、仕えるには心も体も疲弊していた。
ハディードは必ず追手を放つ。
「約束は果たした。もう行かなければ」
真っすぐ見つめて伝えた決断の言葉に、リーフの琥珀色の瞳が揺れる。
「逃亡の旅になる。連れていくことはできない」
守り袋を押し付け、目を逸らした。
「僕、ね。よく迷子になるんだ」
知っている、とアスワドは足元に視線を落としたまま思った。
「これはそのお守り。ちゃんと帰れますようにって」
アスワドの手にお守りを乗せて、リーフは両手で包み込む。
「……アスワドがいてくれないと僕、また迷子になるかも」
「しかし……」
「離れることがあってもいいよ。ただ……元気でいてほしい。また次の花が咲く時は、一緒に見たいなって」
リーフは振り返る。十年越しの花畑を一緒に見ることができた。
永遠なんてない。でも次の十年、アスワドに無事でいてほしい。
そうして十年を一緒に積み重ねていきたかった。
「約束してくれる?」
「……努力する」
目を伏せて控えめに告げる。
アスワドは叶えられない約束はしない。
今はこれで十分だと、リーフは思った。
「うん。きっと一緒に見よう。僕も努力するから」
アスワドの手をそっと握る。
「行けるところまで、一緒に行こう?」
「……ああ」
一瞬緊張が走った大きな手は、やがてゆっくりと握り返してきた。
「十年後も、きっと一緒に」
門の開放を知らせる鐘が遠く鳴る。
眼下に広がる港町。その向こうへ、海を越えて。
二人分の足跡が、砂の大地に並んで刻まれていった。




