夜の底で ※暴力描写有り
日が落ちると、ハディードの住まう正殿には人の出入りが激しくなる。
大勢のざわめきと楽士の奏でる音楽、焚かれた香や供される豪華な食事の匂い……
獣人であるアスワドの鋭い耳や鼻が追えないほどの刺激が溢れている。
特に匂いが強烈で、宴が開かれているサロンを通り抜けるだけでアスワドは酩酊状態になるほどだ。
ふらついたアスワドの提げる籠からひらりと花びらが舞い落ちる。
籠いっぱいの黄色い花の間に酒瓶と軽食がのぞいていた。
床に落ちた花びらは、カードやナフキン、煙草やハーブなどが雑然と散らばる中、誰も顧みられることがなかった。使用人が掃除をする端から何かが散らかされていく。
アスワドは警備の許可を得て奥の扉をくぐり、明かりの落とされた通路へと足を踏み入れる。
ここから先は、サロンでハディードに見初められるなどして、招かれた人間しか入れない私的な区画となる。
ひんやりとした通路を、ひとり歩いてゆく。
薄暗い通路は、否が応でもハディードと対面したあの日を思い起こさせた。
身体が傾くたびに、ひらり、ひらりと花弁が舞う。
ハディードの寝所に続く通路を道しるべのように。かすかな命綱のように。
「遅かったな」
ソファから身を起こしたハディードはにやにやと嗤い、夜食の籠を持って入室したアスワドを見下ろす。
「何かトラブルでもあったか?」
「……いえ、なにも」
「ならば遅参を詫びるべきであろう」
「申し訳ございません」
アスワドは石床に頭をつけて平伏する。部屋には今日も甘い香りの香が焚かれている。頭がくらくらした。
「まあ、いいだろう。女共も遅れているようだ、侍従長はあとで処分するとして……今宵はお前で遊ぶとするか、来い。」
悪意に満ちた笑みを浮かべて天蓋をめくるハディードに、アスワドは籠を置いて黙って付き従った。
チャリ、と金属音を響かせて鎖が鳴る。
首輪に繋がれた短い鎖は、主が意図した方へ顔を向けさせるためだけにある。引っ張られたアスワドは布団に倒れ伏した。
そのまま背中を踏みつけられて起き上がることはかなわない。
「お前に関わるもの、お前が大切に思うもの、全部を壊してやるよ」
頭上から主君の声が響く。まるで仇敵に対する怨嗟の声のように憎しみに満ちている。
「お前は身一つで壊れるまで私に仕えろ。逃亡など許さない」
衣擦れの音がして、耳元に声が響く。前主人と同じ声が。ずくりとアスワドの胸の奥がざわめく。
「この声が欲しいのだろう?同じ血が流れるこの身はどうだ?」
ハディードの指がアスワドの背を滑り、尻尾の付け根を掴んだ。しびれるような刺激が脳天まで駆け上る。
「うっ……」
「ああ、そういえばこの香はネコに効果があるらしいな?」
そう言ってサイドテーブルの香を引き寄せ、蓋を取ってアスワドの鼻先に突きつける。甘い香りが濃く立ち上った。
「銀糸蔦の香だ。私は特に匂いは感じないのだがな」
四肢から力が抜けて布団に沈んでいくアスワドの頭をつまらなそうにハディードが掴み上げる。
「獣は獣らしくしていればよい。私が飼ってやる」
荒い息の下からアスワドは尋ねた。
「うぅ……なぜ、そのような……ナズィール様に、王族の方々に関わるものを憎むのですか」
「なぜ?なぜだと?」
ハディードは作り物めいた笑みを深くする。
「同じ血が流れているからだよ」
その声は次第に熱を帯びる。
「あれに限らず、父も、叔父叔母も弟妹も全て、すべてだ!」
「ぐっ……!?」
首輪を強く引かれ、アスワドは喉を押さえて呻く。
甘ったるい香りが混じった吐息が耳元をかすめた。
「血など呪いだ、お前もそうだろう?獣の血に縛られている、薄汚い血に」
がり、とハディードの歯が皮膚を削り取る。鮮血がシーツに飛び散った。
「血、血がすべて!血族がいる限り、比較され続け、追い付け追い越せと尻を叩かれ、上り詰めれば足を引っ張る者どもにたかられる。これが呪いでなくて何なのだ」
「愛は……、愛情もあったはずです。父王は間違いなく貴方を愛していた」
「政略に過ぎん」
感情の抜け落ちた仮面のような表情でハディードは吐き捨てた。
「あれは母の一族を恐れていた。王座にしがみつく害虫だった」
聞くに堪えない悪口雑言がかつての主の声を借りて溢れ出す。
「愛、愛か。たしかに母は愛していたよ、王家の血をな。俺ではない、俺の血をだ」
狂ったようにハディードが笑う。
アスワドは身をよじるが、首を押さえられて耳をふさぐことはできなかった。
揺らぐ視界の隅で、しゅるりとシーツの上を影が滑った。甘い香りに誘われて。
ああそういえば、とハディードは思い出したように付け加える。
「下の弟は留学中だったのが残念だよ」
帰ってくればよいものを、と憎悪に満ちた声で呟く。
「……第四王子は間もなく帰還される」
「ほう、どこの情報だ?こそこそ嗅ぎまわっていた成果がそれか?早速迎えを遣らねばな」
そうだ、と思いついたようにハディードはアスワドの顎に手をかけ振り向かせる。
「お前が行って連れて来い」
ハディードの碧い瞳は闇夜の海のごとくひとかけらの光も映してはいなかった。
「そうですね……もう、終わりにしましょう」
アスワドは頭を垂れ吐息をこぼす。
声の調子のわずかな変化にハディードが怪訝な顔をする。
「私に説教する気か」
「いいえ」
アスワドの足がハディードの下半身を払いのける。
「歯向かうか、無駄な……うっ」
シーツの上に仰向けに倒れ込んだハディードの腕を鋭い痛みが襲う。
「なんだ……!?」
剃刀でも持ち込んでいたのかと振り向いた視界に映ったのは、腕に絡みついた一匹の蛇だった。
中庭に住まう小さな毒蛇のことなど、ハディードは知らない。
「ヘビ、だ……と……!?」
慌てて振り払い、薬箱へと伸ばした手が途中で力を失う。
「麻痺、毒か……?」
「死にはしませんよ、一度毒は吐き出させていますからごく少量です」
アスワドが食い破られた首筋を押さえながら身を起こす。
「しばらく身動きが取れないだけです」
言いながら香の蓋を閉じて籠から拾い上げた瓶の水で消火し、布でくるんだ。
アスワドはベッド脇に備え付けられた棒で天井の換気口を開く。部屋にこもった甘い匂いは薄れていった。
「貴、様……どうやってこんな」
「銀糸蔦の香の匂いで食事の条件付けをしただけです。私は籠に入れて連れてきただけにすぎない。あなたが香を持ち出したから、食事だと思って近づいた」
「それではお前が噛まれるかもしれぬだろう」
「刺激をしなければ基本はおとなしいですよ、それにどのみち私は行動が制限されていたので噛まれても大差はない」
自分のリスクすら淡々と告げる様子にぞっとするものを感じてハディードが後ずさる。
「首輪があることを忘れたか?私を害することはできぬぞ」
「まあ、それも一か八かですね」
アスワドは手足に力を込める。限界まで張り詰めた筋肉がざわりと波打った。
褐色の肌が更に濃い闇色に染まっていく。荒い息とともに床についた腕から、低く沈めた足から、背中から。太く剛い毛が覆っていく。
身体が二回り膨れ上がったかと思うと、それは巨大な黒い豹の姿を取った。
首輪がばきんと音を立ててはじけ飛んだ。
「なっ……変身種だと!?」
ハディードは枕元から剣を持ちだしたが、太い前足の一撃で弾き飛ばされる。
「え、衛兵!衛兵!!」
ハディードはかすれた喉で声を張り上げた。
しかし、廊下はしんとして不気味なほどに静まり返っている。
『無駄だ』
獣の喉が空気を震わせかすれた人語を響かせる。
ぽつ、ぽつと小さな音が廊下越しに響いてきた。
それはやがて数を増していき、ザーととめどなく流れる水音となる。
『雨季が来た。この時を待っていた、夢想樹の実が生るこの時期を』
「なに……?」
『煮詰めれば強力な睡眠効果のある精油が取れる。正殿の人間は今頃みんな夢の世界だ』
冷たい獣の目がハディールを見下ろした。
『我が主の仇……』
「ま、待て」
『そして俺の友人を傷つけたこと、後悔してもらう!』
叫びは猛獣の咆哮となり部屋の空気を引き裂いた。
朝日が差し込むころ、正殿は次第に騒然とし始めた。
朝廷に王の姿はなく、サロンではしおれた花弁が足元を舞う中、賓客と使用人たちが昏睡していた。ブーゲンビリアの花びらに染み込んだ揮発性の睡眠香はとうにかき消え、犯行の手掛かりは何一つ残っていなかった。
そして王の寝所に駆け付けた兵が見たものは……寝台でうずくまり恐怖に震える王の姿だった。




