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別れの時

 扉が閉まる音で、リーフは目を覚ました。

 中庭から移動する間、意識が落ちていたらしい。

 大柄なアスワドの腕の中は安定していて何の不安もなかった。

「ここ、は……」

 首を傾けると、机の上に黄色い花が生けられた花瓶が見えた。自分が昼食のバスケットに添えてアスワドに贈った花だ。ということは……

「俺の部屋だ」

 アスワドの声がして、ふわりと藁布団の上に降ろされた。

「薬を出す、少し待ってろ」

 机の上の荷物をいじるその後ろ姿をなんとはなしに眺める。

 均整の取れた逞しい体、ズボンの後ろから伸びた長い尻尾。

 塗れた黒髪から突き出した三角の耳はちょっと垂れ下がっていた。

(あ、ちょっとへこんでる?)

 本人に言ったら否定しそうなので黙っておく。

 先ほどまでリーフを抱えていた太い腕には、無数の傷が白っぽく浮き上がっていた。上着を脱いだむき出しの首から肩にかけても。

(……あれ?)

 ふと引っかかるものを感じて、リーフは起き上がろうとする。

「……いてっ」

「バカ、大人しくしてろよ」

 こめかみが痛んで頭がまた布団に沈む。

 アスワドが布と水の瓶、薬らしき小瓶を手に戻って来る。

 濡らした布で顔を拭われると、ひんやりとして気持ちがよかった。

 汚れを拭い、薬を塗り、新しい布を裂いて巻き付ける。

「応急処置はこんなもんか。あとは医者に診てもらえ」

「ありがとう」

「礼を言われることじゃない」

 痛みにひきつる頬で笑いかけると、アスワドは顔をしかめた。

 自分のせいで襲撃されたと思っているのだろう。

「悪いのはアスワドじゃなくて、くだらないことした連中だからな」

「……防げたことだ」

「ここに来てたのは俺の意思だから」

 枕元に膝をつくアスワドに手を伸ばす。

「ニム、やさしいね」

 青い目が見開かれた。推測が確信になる。

「お前を探しに来たんだ」

「やっぱり俺のせいじゃないか」

 初めてアスワドの表情が崩れた。

 やっと見つけた、子供の頃の小さな友だち。姿が違っていてすぐには見つけられなかったけど。

 うつむくアスワドの背に腕を回して抱き寄せる。

「違うよ。売り飛ばされたのは俺がうかつだったし、会えないままよりずっといい」

「……子供の約束だ、体を張るようなことじゃない」

「でもお前は律儀に村に来てたっておばさんから聞いた」

「それ、は……」

 アスワドの手がベッドの縁を掴む。

 ぎしり、とベッドが軋んだ。

 間近で見上げた青い瞳は、熱っぽくうるんでいた。

「……リーフ」

「なに……?」

 大きな手が頬をなぞる。

「ずっと探してた」

 親指がすっと唇を撫でていく。

「ア、アスワド……?」

 戸惑うリーフに微笑むアスワドの顔は、見たことがないほど艶やかだった。


 ギシギシと木の軋む音がする。

 寝台の上で、アスワドの背が少年へと覆いかぶさっていく。

 扉の隙間から様子をうかがっていた男たちは顔を見合わせ、そっと扉から離れた。


「アスワド……あの……」

「しっ」

 リーフの口を軽く手で押さえ、アスワドは耳に神経を集中する。ネコ科の耳が、ぴんと立つ。

 同時に足先ではベッドの支柱を時々蹴っていた。大柄なアスワドと、小柄とはいえ成人のリーフが乗ったベッドはたわんで大きな音を立てている。

「こうすればまともな人間は声が聞こえないくらいの距離を取ろうとする。フロアの入り口は見張られているだろうが……」

 人の気配がないことを確認して、手を離す。

 視線を戻すと、リーフの顔はリンゴのように真っ赤になっていた。

「すまない、怖かったか?」

「ううん、大丈夫」

 アスワドの頭の上で耳が視線と一緒にぺたんと伏せる。

 可愛く思えて、思わず口元をほころばせてしまう。体は大きくなっても、リーフが知る「黒猫」だった頃と変わらないところがあることにほっとする。

「こわくないよ」

 手を伸ばしてよしよしと撫でると少し驚いた顔をした後、拗ねたように視線を逸らす。

「猫扱いするな」

「ふふ、わかってるよ」

「うん」

 アスワドはそっと目を閉じ、手のひらに頭を預けてくる。ほんのわずかな間、温かな沈黙がふたりきりの空間を満たす。

「リーフ」

 再び目を開いたアスワドは、既にいつもの毅然とした顔に戻っていた。

「ここを出るんだ」


 監視役の男は、あくびをした。

 薄い壁と粗末な家具の部屋からはまだ物音が漏れている。

 何が悲しくて監視対象の情事まで見張らなくてはならないのか。

(朝っぱらからまったく……これだから獣風情は)

 内心ぼやいた瞬間、部屋からひときわ大きな音が響いて男はびくっとする。

 寝台の軋みなんて可愛らしいものではなく、明らかな破壊音だ。

 あの男、寝台でも壊したのか。

 唖然としていると、部屋の中でも慌てているのか物音と話し声が聞こえてくる。

 しばらくして獣人の男が半裸で廊下に姿を現した。ああ、見たくない。

「そこで待ってろ、あとで着替えを持ってくる」

「早く帰って来てね……」

 不安そうな少年の声が部屋の中からした。

 破壊した寝具の報告に行くのだろうか、部屋を出た監視対象を追う。

 通りすがりに覗き込んだ部屋の中では、壊れた寝台の上で丸くなったシーツの塊から若草色の髪がのぞいていた。

 戦闘力もない、ただの無力な一般人だ。何ができるわけでもない。監視の必要はないだろう。


「アスワドさんよお、どうやったらこんな壊し方できるんだい」

「……すまん」

 アスワドの部屋を木材や工具を持った奴隷たちが出入りする。

 その多くは猫科や犬科の動物の耳と尻尾をもつ獣人奴隷たちだ。

 力仕事などの過酷な仕事には体力や腕力に優れた獣人があたることが多い。

 備品を壊したことを報告すると、早速撤去のための人員がやってきた。

 作業の合間に奴隷長が戸口でアスワドをつかまえて絡む。

「夜中にダンスの練習でもしてたのか?」

「……」

「かーっ、都合が悪くなると目を逸らしてだんまりかよ!相変わらずだな」

 寝台は強い力で上から踏み抜かれでもしたかのように真っ二つになっていた。

「まあ薪にも困ってるからばらして燃料かな、こりゃ」

「燃料不足か」

「食事も最近いつにも増してひっでえだろ?お前じゃないが、お上が毎晩あれじゃな」

 奴隷長の男は肩をすくめる。宮殿では毎晩放蕩三昧という話は王都中に知れ渡っている。

「滅多なこと言うなよ、どこで聞かれているか……」

「こんな状態じゃほっといてもそのうち皆揃って干上がるだけだぜ。なあ、役人さん?」

 奴隷長は廊下の先に向かって声を張り上げる。もちろん返事などはないが、監視の気配が遠のく。

「まあ俺らはこれがあるからどのみちくたばるまでここに縛られたままだ」

 そう言って奴隷長は首輪(チョーカー)を指す。

 脱走防止の機能はついていないとはいえ、目立つそれは逃亡の邪魔になるし、誤作動でも起こしたら命にかかわる。

「解除用の起動ワード、盗み出せねえかなあ」

「だから滅多なことを言うなと……」

「ははは!まあ俺らは頑丈さが売りだからな!生きてたらまた会おうぜ!」

 男は豪快に笑って部屋を見回し、部下たちが集めた部材入りの大きな木箱を持ち上げる。

 原形をとどめた部品はすでに運び出されていた。

「じゃあな、大将。しっかりな!」

 男はばしんとアスワドの肩を叩くと、木箱を肩に担いで去っていく。

 その後ろ姿を見送り、アスワドはそっと扉を閉じる。

「リーフ、終わったぞ。出てきていい。着替えを……」

 再び部屋の中で交わされる恋人同士のやり取りに気を留める者はいなくなっていた。


 雲の切れ間から細い月が覗く頃。

 アスワドは中庭をのぞむ回廊を渡る。

 篝火の数はかつてより少なく、中庭のあちこちに濃い闇がわだかまっていた。

 ふらりと立ち入り、様子を見て回る。

 主の思い出の残る中庭はアスワドの一人の手入れでは行き届かず、以前よりさらに荒れた印象になっている。

 そんな中で庭の一角に咲き誇る茂みを見つけ、足を止めた。

 乾燥にも強いブーゲンビリアは、ひとりでに枝葉を広げ、多くの花をつけている。

 鮮やかな黄色の花が珍しいと主が遠国から取り寄せたものだ。

 その花言葉は……

「『私はあなたを信じます』、か」

 リーフが差し入れた最初の花も、黄色のブーゲンビリアだった。

 まるで彼の瞳のような色をしていた。

 舞い落ちた黄色い花弁が地面を黄色く染めている。

 アスワドは膝をついてその花弁の一つを拾い上げる。

「お別れだ」

 呟いて満開の花を見上げる。

 ――時は満ちた。

 夜のとばりが王宮の空を包み込んでいく。

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