破滅の足音 ※流血描写有り
「アスワド」
耳元でその声が響くたび、ぞくりと身体が震える。
「殿下……」
知らず亡き主を呼んでしまう。背後で嗤う気配がした。
「申し訳ございません……申し訳ございません、我が主」
誰に対してなのかわからない謝罪をアスワドは繰り返す。
退屈を嫌うハディードは、恭順を示せばそのうち興味を失うだろう。この苦しみを抜け出すにはそれが近道だとわかっている。けれど。
(まだ……まだ駄目だ。今はまだ……)
視界が白くかすみ、すべての形がぼやけて見える。
鈍痛を訴える頭に、ふとやわらかい感触と幼い声が舞い降りた。
「ニム、いい子」
アスワドは薄く目を開いて声の元を見上げる。
琥珀色の瞳に見つめられて、遠く優しい記憶が呼び起こされる。
穏やかな風と緑に包まれた山並み。踏みしめる草の青い匂い。
小さな手がアスワドの耳の間をかくように撫でている。思わずごろごろと喉を鳴らしそうになった。
「お前は……」
意識がゆっくりと浮上する。
自室のベッドで、誰かの膝上で頭を抱えられて横たわっている。いつからこうしていたのか。
「アスワド、無理しないで」
「……リーフ」
華奢な手が、アスワドの獣の耳をもにもにと揉み倒している。
「お前……俺の耳をいじりたいだけだろう」
「あれ、バレた?」
イタズラがばれた子供のようにけらけら笑うリーフの手をどけて、アスワドは身を起こす。2人分の体重がかかるベッドがぎしりと軋んだ。
「荷物だけ置いて帰ろうと思ったんだけど、うなされてるみたいだったから入ってきちゃった」
「外まで聞こえてたのか」
「ううん、多分寝返りなんだろうけどベッドがすごい音立ててたから。覗いた」
「覗くなよ……」
粗末な奴隷部屋のベッドは標準サイズで、大柄なアスワドの足は大きくはみ出していた。
「なんだよ、心配したのに。ご飯も食べてないしさ」
リーフの視線が作り付けの机に向かう。昨日差し入れた藤籠が、そのまま置かれている。
「礼を言う。だがもう来るな」
「僕思うんだけど、"礼を言う"ってお礼言ってなくない?」
「……ありがとう」
途端に少年の顔がぱあっと輝く。
「アスワドっていい奴だよね!」
言い返す気を失くして、アスワドは話題を変える。
「……お前、どうしてこんなところに勤めてるんだ」
「うーん、ちょっと尋ね人?かなあ。用事もあって都に出てきたんだけど、仕事があるって話に釣られてのこのこついて行ったら騙されちゃって」
あっけらかんと重たい話を明かす。その首元には、アスワドと同じく宮殿内の奴隷の身分を示す金属製の首輪が冷たい光を放っていた。
脱走防止の機能はないが、貴人への危害を防止する効果がある。
どんな理不尽があろうと、反撃を封じるものだ。
そして、リーフの手足にはあちこち痣があった。
そっと視線を外し、目を伏せる。奴隷として売られてきた以上、契約終了や借金を返さない限りは解放されない。アスワドにもどうしようもないことだった。
「人探しだけなら、手伝えないこともないが」
「ほんと!?これくらいのね、かわいい子でね。あ、たぶん黒猫の獣人だと思うんだけど」
「待て。それはいつの話だ」
「えーと……5……いや10年くらい前?」
頭痛を覚えてアスワドは眉間を押さえる。
「そのままの外見な訳ないだろう。特に獣人の成長は早いぞ」
「えっそうなの!?猫ちゃんだから、あのサイズで大人なのかなって」
リーフが手で示したのは、確かに膝の上に何とか乗るくらいのサイズだ。猫に変化する獣人ならば成猫だろう。本当に猫ならばだが。
そうこうしているうちに、遠くで鐘楼の鐘が鳴り響く。夕刻を知らせる鐘だ。
「あっ、もうこんな時間!?僕帰るね!これ今日の分!」
そう言って脇に置いていた籠を押し付ける。
「じゃあまた!」
「だからもう来るなと……」
言い切らないうちに少年はばたばたと飛び出して行ってしまった。
押し付けられた籠には、また一輪の花が添えられている。……あの様子では花言葉の知識などなさそうだが。切り口から見て、そこらでむしったわけではなく、王宮内に納められた生花を分けてもらってきているようだ。
かすかに漂う花の香りを吸い込もうとしたが、籠から立ち上る匂いが鼻をつく。
昨日の差し入れもそうだったのだが、リーフが準備したとおぼしき料理には焦げや生焼けの部分があり、お世辞にもおいしいといえる状態ではない。
「……今日は食べられるものだろうな?」
とはいえ、ハディードの寝所にこもる甘ったるい香の匂いに比べれば、ずっとマシだった。むしろ意識がはっきりするくらいだ。
頭痛が残る頭を振って、アスワドは立ち上がった。
中味はともかくとして、二度も助けられて何も返さぬわけにもいかぬだろう。
次の日、アスワドは籠を人づてにリーフの部屋へと送り返した。
返礼に打ち身に効く軟膏や、滋養強壮の木の実をしのばせて。
誰も関心を持たない打ち捨てられた中庭にはナジールが植えた薬草や薬効のある果樹がまだ残っていた。
アスワドは普段それを加工して同じ身分のものに分け与えたり、あるいは使用人たちの物品や金銭と交換している。すでに広範囲に流通しているから、奴隷の少年が持っていてもおかしくはない。
が、返礼を喜んだリーフはなにかと中庭で待ち伏せたり部屋に押し掛けてきたりしてアスワドは閉口した。危機感がなさすぎる。アスワドの境遇は有名な話だというのに。
ただ、目を離すのも躊躇われた。リーフの体から痣が消えることはない。
職務は給仕と言ってはいたが、夜毎王宮のあちこちで開かれる酒宴の席でろくでもない目に合っているのだろう。ハディードの治世になってから当然のように横行している蛮行だ。
苦いものを飲み下し目を伏せるアスワドに、リーフは「平気」と健気に笑う。
それぞれの仕事をこなし、疲弊して泥のように眠り、たまに部屋を行き来する。
そんな日々がしばらくは続いた。
ハディードの元ではそんなささやかな安らぎさえ、長くは続かないとわかっていたのに。
朝方降り始めた雨は、あっという間に土砂降りとなった。
ぬかるみに藤籠が転がる。
「リーフ……!」
いつも通り訪れた中庭の隅、白い花の咲き誇る樹木の下。壁に寄りかかるようにしてリーフが座り込んでいた。
駆け寄るアスワドの気配に、億劫そうに腫れた瞼を持ち上げる。
「お、おはよ……」
「しゃべるな!」
口の端が切れ、こめかみからも血が伝う。額に酷い傷跡があった。手足に至っては無数の切り傷と打撲痕に覆われている。
「誰に……」
問いかけて口をつぐむ。王宮内の刃傷沙汰は重罪だ。滅多に起こるわけもなく、リーフがそこまでの恨みを買う可能性も少ない。ならば仕掛けたのはこの王宮の主やその配下しかない。
「こないだケンカ売っちゃったし……仕方ないよ」
「それだけで……」
こんなことにはならないだろう。ハディードの差し金だ。
間に合わなかった。周囲に害が及ぶ前に、終らせられたらと……
唇を嚙むアスワドの髪をリーフの手がやさしく撫でる。
「アスワドのせいじゃないよ。大丈夫」
「リーフ」
「でもちょっと疲れちゃったから……部屋まで帰るの手伝ってくれる?」
「ああ……もちろん」
抱き上げた体は細く小さく、雨に濡れそぼって冷たかった。
自分の上着をかけて、抱きしめる。
「アスワド……?」
こんなことは、もう終わらせなければ。
視界を煙らせる雨を見上げる。雨季の到来だ。
篠突く雨に打たれて、中庭に花びらが落ちていく。
「……行こう」
絨毯のように地を覆う花弁を踏みしめて、アスワドは中庭を去った。




