中庭の住人
どんな夜にも、終わりは来る。
夜明けの光がまぶたの裏を灼く。
朝だった。
アスワドは床の上で体を起こした。
チャリ、と首輪の先で鎖が小さな音を立てる。
振り返ると、天蓋越しにシーツにくるまれた主の背中が見えていた。
大きな寝台に夜伽の女とお気に入りの小姓を両脇に侍らせ、サイドテーブルには酒杯と薬箱、用途を知りたくもないような玩具が散乱している。
主の放蕩三昧は、あの中庭の処刑場の夜から変わらない。
ため息をひとつつき、脱ぎ散らかされた衣服や汚れたシーツを回収用の藤篭に放り込んでいく。
夜間の身の回りの世話を担当するアスワドの仕事は、簡単な汚れものの片づけで終わる。酒瓶や食器を拾い、香炉や灯りの火を始末する。
あとは日中の召使たちがきちんと清掃をするだろう。
寝静まった部屋を一度だけ振り返り、アスワドはそっと扉を閉じた。
ハディードの寝所を出て控えている侍女に洗濯物や空き瓶の処理を依頼し、アスワドは使用人の居住棟へと向かう。
呼び出しがない限り、夕方以降主人が再び遊戯に興じる時間までは自室で休むことができる。
歩き慣れた王宮の広い廊下を惰性で進み、厨房に寄って食料を分けてもらってから帰途につく。
やがて、宮殿の中庭に面した回廊に出た。
かつて主人とともに散策した広い庭は、今は手入れするものもなく植物は大半が刈り取られ、水路は枯れ果て、荒れた雰囲気となっていた。
(アスワド!)
記憶の中の景色と主の声が脳裏によみがえる。
「アスワド、アスワド!こっちだよ!」
中庭をまだ少年の面影を残した王子が駆けてゆく。
泉の水が引かれた庭は、砂漠の真ん中であることを忘れるほど色とりどりの花に溢れていた。
「殿下、私にはニムルという名前があります」
新しく護衛武官に着任したアスワドは、緊張した面持ちで申し述べる。
これから警護する主人は、この砂漠の国・アルナール王国の第一王子のナズィール。
現王の今は亡き側妃の子だが、親しみやすい人柄で民からの人気がある。
アスワド自身もナズィールが設立した施設に引き取られて育ち、恩返しのためにとこの職務を希望してきた。
王子は屈託のない笑顔を新人武官に向ける。
「ええー、でも君、黒くてかっこいいからさあ」
アスワドという名前にはこの地域の古い言葉で"黒"という意味がある。よくあるファミリーネームで、知る限りでも数人は同名の臣下がいるはずだった。少し紛らわしい気がして困惑する。
王子が戯れでつけたあだ名で家臣を呼ぶということはよく知られていた。
「アスワドがダメなら、クロちゃんって呼んでいい?」
「やめてください」
即座に却下する。
「じゃあ、アスワドでいい?」
「まあ、ファミリーネームなので構いませんが……」
「じゃあ決まり。よろしく、アスワド」
歯切れの悪い返答にも王子は気を悪くした様子もなく、無邪気に笑って自分より高い位置にあるアスワドの頭に手を伸ばした。
黒い髪の間から伸びた耳は、髪とは異なるつややかな毛皮に包まれている……アスワドはこの地域に多く住まう獣人族の一人だ。
獣人にも種族は色々あるが、アスワドはネコ科の特徴を持っていた。三角の耳に、長い尻尾。髪も毛も黒く、褐色の肌。
全体的に"黒い"容姿の中で、瞳の色だけが深い青だ。
「うーん、いい手触りだね。毎日撫でていい?」
猫と同じく耳は少し敏感な部位なのだが、王子はもにもにと遠慮なく耳を揉んでくる。
「やめてください。任務に支障が出ます」
「ちえーっ、ケチ!」
頬を膨らませたものの、王子はおとなしく手を離した。
「殿下、新人にはお手柔らかにお願いしますよ」
「いじめてるつもりはないんだけどなあ……ねえ?」
中庭の隅で控えていた侍従長に声をかけられ、王子が眉を下げて見上げてくる。
毒気を抜かれてアスワドも思わず相好を崩した。
王族だというのに高圧的なところはなく、まるで対等な友人のように接してくる新しい主。
中庭の空気はゆったりと流れ、行き交う臣下は王子にあいさつし、同僚同士声を掛け合っていて場は和やかだった。
だが、その雰囲気は扉の軋む音とともに波が引くように消えていった。
振り返ると、侍従を複数従えた貴人が中庭を囲む回廊に姿を現したところだった。
その場の使用人たちは全員平伏して沈黙し、貴人の通過を待つ。
断りなく顔を見てはならないし、口をきいてもならない。
それが王侯貴族に対する通常の作法だった。第一王子の振る舞いは例外的だ。
通過する貴人は、第一王子よりも小柄だった。
第二王子ハディード。
現王の正妃の唯一の子だ。異母兄である第一王子のナズィールと違って幼い頃から帝王学を叩きこまれた彼は、上下関係に厳しく気性も苛烈だと聞く。
侍従長とともに頭を垂れるアスワドは、その小さな貴人の足が侍従に囲まれ通り過ぎるのを息を殺して待つ。
美しい刺繍が施された靴に包まれた、傷ひとつない作り物めいた美しい足。視界に入ったそれに、不敬があってはならないと慌てて目を逸らした。
兄であるナズィールだけがその場で後ろ姿をじっと見送っている。
振り返りもしない、王の正統な後継者。
ぎいい、と回廊の反対側の扉が軋んで閉ざされた。
途端にほっと緩む空気の中で、ナズィールのこぼした言葉を、側に控えるアスワドの耳だけが拾い上げる。
「……可哀想に」
その言葉の意味を、アスワドはまだ知らなかった。
あの時、ハディードが姿を消した扉をぼんやりと眺めていると、それがぎいいと軋みを上げて開き始める。
はっとして身構えるが、扉の影から姿を現したのは小柄な少年だった。若草色の髪が跳ねる。
元気よく回廊に飛び出してきた少年は、そのまま通り過ぎるのではなく……中庭に立ち入ってきた。
「あれっ?」
アスワドの姿を見て足を止めるが、すぐにぱっと笑顔になる。
「人がいるなんて珍しいな。ここで朝ご飯したいんだけど、いいですか?」
手に提げた籠からは、かぶせた布の隙間からパンと飲み物の瓶が覗いていた。
「ここ、緑があってちょっとほっとするから」
「……お前は」
「あ、怪しいものじゃないです!僕、深夜番の奴隷。ほら、服が一緒でしょ!」
そう言って、奴隷に支給されている揃いのシンプルな布地の服を示す。
そもそも王宮内部の人間は厳密に管理されているから、そうそう怪しい人間は紛れ込まないのだが、少年はあわあわと聞かれてもいないのに言い訳を始める。
「夕べは思ったよりお仕事少なくて……」
「好きにするといい。ここは誰も管理していない」
アスワドは言い置いて、庭の奥へと進む。
「あ、ちょっと足元!危ない!!」
少年が慌てた声を上げ、追いすがってくる。
足元に小さな蛇が這い寄って来ていた。地面に溶け込む砂色の体に、頭の上には猫の耳のように2本のツノが立っている。クサリヘビという有毒種だ。
「わ、毒蛇ですよ、これ!」
「おい」
少年はアスワドをかばうように飛びついてきた。
「下がって!」
小さな体全体でぐいぐい通してくるが、アスワドの大柄な体躯はびくともしない。
「刺激しなければ何もしてこない。こいつは飯を食いに来ただけだ」
「……飯?」
きょとんと見上げて来る少年をよそに、自分の籠から荷物を取り出す。
使用人の朝餉用に〆られた捌く前のトカゲだ。
それを屈みこんで蛇の手前の地面にそっと放る。
一瞬びくりと震えた蛇は、ちろちろと舌を出しながらトカゲの前で体をうねらせ、やがてそれを丸呑みにした。
「ひえっ……ひとくちだ!手のひらサイズを!」
背中にしがみついてくる少年の手は震えていた。
「蛇は苦手か」
「……はい」
しょんぼりと答えてから、少年はぱっと体を離す。
「あ、スミマセン!!」
「静かに」
しゅるしゅると蛇が草むらへと戻っていく。
ナズィールがいた頃からの中庭の住人だ。
毒はあるものの、大人しい種類でめったに人前には姿を現さない。庭が荒れてからは食べるものもなく飢えた様子であったのを見つけて以来、時折餌を与えていた。
懐きはしないが、習慣として餌が与えられることは覚えている様子だ。
その砂色の体が完全に消えると、少年はほっと体の力を抜いた。
「……行っちゃいましたね。駆除されたりしないんでしょうか」
「手入れする者がいないからな。ここは小さな動物たちが勝手に暮らしている」
立ち上がったアスワドの長身を、少年は羨ましそうに見上げる。
その瞳には、獣人に対する蔑みはない。
「奥の茂みに踏み込まない限りは安全だ」
「あ、ありがとう。もう行っちゃうんですか?」
「ああ。……次見かけても、俺に話しかけるなよ」
「え、なんで?」
首を傾げる少年に、アスワドは思わず渋面になる。
王侯貴族には獣人を蔑視するものが多く、宮殿に仕える獣人は数が少ない。
つまりは、訳ありだ。
「厄介者に関わると、ろくな目に遭わないぞ」
「あ……」
危機感の薄い少年に背を向けて、立ち去ろうとする。その背中に、少年の声が飛ぶ。
「ちょっと、足元!」
「ぅわ!?」
水路跡に足を取られてしまい、地面に手をつく。考え事に気を取られすぎたのか、滅多にない失態だった。
すぐに少年が駆け寄ってきて、手を差し出す。
「大丈夫?」
「……問題ない」
拒む理由もなく、小さな手を取って立ち上がる。久々に触れた、人の温かさだった。少年はくすくすと笑う。
「猫さんでも転ぶことってあるんですね」
「……猫じゃない」
アスワドの尻尾が不満げに揺れる。それを見て、少年はますます笑った。
「僕、リーフっていいます。あなたは?」
「……アスワド」
意図せずできてしまった関わりに、天を仰ぐ。
朝の光が、庇の上から小さな中庭を照らしはじめていた。




