第5話 勝っても赤字
「魔王軍です」
「だろうな」
闇の中から黒い鎧の魔族騎兵が現れた。先頭だけは違う。
長い黒髪。細い角。紫の瞳。派手な軍装ではなく、地味な財務官の服。
腰に剣。手には分厚い帳簿。
「あなたがロアン・グリードですか」
「そうだ」
「魔王軍財務官セレーネ・ヴァルムです」
俺は焚き火の向こうに座ったまま彼女を見た。
「思ったより早かったな」
「あなたの請求書のせいで軍の決裁が止まりました」
「それはよかった」
「よくありません。現場指揮官が村を焼く前に財務部へ確認を取るようになりました。橋も処刑も倉庫徴発も、まず試算です」
「健全化しているな」
「軍が遅くなっています」
「だから健全化だ」
「人間の高利貸しが魔王軍の財政に口を出すのですか」
「俺の担保を壊している相手の帳簿だ。見る権利はある」
「その担保という主張を、我々は認めていません」
「認めるかどうかは任意だ。債務が発生するかどうかは契約が決める」
セレーネは帳簿を開いた。
「あなたの請求は過大です。アルカディア村、ヘルメス街道、デメテル倉庫群。どれも補給費や来年税収まで上乗せしている」
「上乗せではない。お前たちが来年から前借りしているだけだ」
「逃亡労働力まで資産計上するのは、人間側の論理です」
「魔王軍も徴税対象として見ている。なら争点にならない」
「論理は理解します。しかし、支払う義務は認めません」
「支払えないの間違いだろう」
「図星か」
「言葉を選びなさい」
「選んでいる。お前たちには金がない」
「魔王軍は勝っています」
「戦場ではな」
「王国軍は後退し、砦は落ち、勇者も敗れた」
「それで収支は」
セレーネは黙った。
俺は銀板を出す。未払い賃金。補給費。反乱鎮圧費。来年税収の低下。赤い数字ばかりだった。
「お前たち、もう勝っても赤字だぞ」
焚き火が爆ぜた。セレーネは否定しなかった。
「やはり分かっていたか」
「あなたに言われるまでもありません。この戦争は短期決戦を前提にしていました。勇者をタルタロス平原で撃破し、王都まで一気に進む。それなら収支は合いました」
「止まった」
「あなたのせいで」
「違う。お前たちの占領が雑だからだ」
「魔王様に同じことを言えますか」
「言うために来た」
「殺されますよ」
「帳簿には関係ない」
「勇者リディアも魔王様に敗れました」
「勇者は剣で行った」
「あなたは何で行くのですか」
俺は鞄を叩いた。
「請求書だ」
セレーネは初めてわずかに笑った。嘲笑ではない。呆れに近い。
「本気なのですね」
「ああ」
「あなたは魔王様に何を求めるつもりですか」
「原状回復計画、賠償計画、未払い債務の整理。勇者から奪った担保資産の返還だ」
「勇者の担保資産?」
「鎧、遠征物資、薬品、転移石、馬車、保存食。リディアが俺の貸付金で取得したものだ。奪えば不法占有だ」
「聖剣は魔王城にあります」
「なら返せ」
「できません」
「なぜ」
「魔王様が勇者への勝利の証として玉座の間に置いています」
「くだらん見栄だな」
「聖剣は見世物ではない。資産だ。保管費用もかかる。管理が悪いなら、それも請求する」
「あなたは魔王様を怒らせる天才ですね」
「債務者はだいたい怒る」
「魔王様は債務者ではありません」
「今からなる」
俺は契約書の写しを出した。
「リディアが借りた金で取得した物資を奪い、担保対象世界を毀損し、占領地の価値を下げた。これだけあれば十分だ」
「魔王様は力で拒みます」
「力では帳簿は消えない」
「帳簿ごと焼かれたら?」
「焼いた時点で証拠隠滅費を追加請求する」
セレーネは焚き火の前に座る。
「ロアン・グリード。あなたの試算を見せなさい」
「そちらの帳簿も見せろ」
「軍事機密です」
「俺の試算も債権者機密だ」
沈黙のあと、セレーネが言った。
「一部だけです」
「こちらも一部だけだ」
「では交換しましょう」
セレーネの帳簿は細かく、数字は正確だった。
「補給費、月200と書いてあるな。これは橋が無事だった頃の額だ。今は3割は増えている」
「・・・試算をやり直します」
「ついでに、こちらの請求書の逃亡率も直す。お前の徴税台帳のほうが新しい」
俺は帳簿を閉じた。
「優秀だな」
「どうも」
「上が馬鹿だ」
「否定しません」
ベルナールが声を漏らす。
「否定しないのですか」
「魔王様は強大です。ですが、財政を理解しているとは言えません」
セレーネは淡々と言った。
「恐怖で支配すれば反乱費用が増える。略奪で兵を養えば次の収穫が消える。私は何度も進言しました」
「聞かなかったか」
「魔王様は勝てばすべて手に入ると」
「よくある失敗だな」
「ええ」
「このまま進めば、魔王軍は王都に着く前に補給が破綻する」
「あなたの試算でもそう出ますか」
「出る」
「私の試算では、王都攻略後に破綻する予定でした」
「楽観的だ」
「分かっています」
「原因は分かっているな」
「進軍速度の低下、占領地収奪による生産力低下、現場指揮官の勝手な略奪」
「なら止めろ」
「止められれば苦労しません」
セレーネは焚き火を見つめた。
「魔王軍では、力が正当性です。魔王様の命令は絶対です」
「絶対など契約以外に使うな」
「あなたらしい言い方ですね」
「お前はどうしたい」
風が吹き、焚き火の火が横に揺れた。
「魔族が飢えない国を作りたい」
その声は小さかった。帳簿のどの数字より重い。
「魔族は長く、ヨトゥンヘイムの痩せた土地に押し込められてきました。冬は長く、畑は少ない。魔王様は、人間の土地を奪うと約束した」
「それで戦争か」
「ええ。最初は必要だと思いました。けれど、奪った土地を壊していては国は作れません」
「よく分かっている」
「分かっているだけです。止める力はありません」
「なら俺が止める」
「請求書で?」
「請求書で」
「狂っています」
「返済不能者はよくそう言う」
セレーネは帳簿を閉じた。その音を騎兵たちは全員聞いていた。
「分かりました。魔王様の前で同じことを言いなさい」
「逃げなくていいのか」
「逃げません。私が作った帳簿です」
セレーネは立ち上がった。
「魔王城へ案内します」
「危険です」
騎兵が止める。
「危険なのは、このまま帳簿を無視することです」
「ただし、魔王様の前で同じ口を利けば、本当に殺されます」
「構わん」
「なぜそこまで」
「魔王に滅ぼされた世界など資産価値ゼロだ」
セレーネはしばらく俺を見ていた。
「あなたは善人ではありませんね」
「違う」
「ですが、無責任ではない」
「債権者だからな」
俺たちは夜明け前に旧関所を出た。
西へ進むにつれ、空は暗くなった。木々は黒く、草は低く、川の水は鉄の匂いがした。
道中、魔族の駐屯地を通るたび、俺は請求書を置いていった。
「本当に全部請求するのですか」
「払えない額を見せないと、再建計画に進まない」
「つまり破産処理ですか」
セレーネが振り返った。
「勝手に破産させないでください」
「もう支払不能に近い」
「認めていません」
「認めるのは債務者の最後の仕事だ」
「あなたの言葉はいちいち腹が立ちますね」
「請求書にもそう書いておくか」
魔王城が見えたのは7日目の夕方だった。
黒い山の中腹に巨大な城が立つ。尖塔は空を刺し、壁は黒曜石のように光り、赤い魔力の川が周囲を流れている。
維持費が高そうな城だ。




