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■ 第8章 乗船前夜

出発は、明日だった。


 街は、静かだった。


 騒がしくなるかと思っていた。


 だが——そうはならなかった。


 むしろ、いつもより静かだった。


 まるで、街そのものが——息を潜めているかのように。


 リナは、部屋の中に立っていた。


 荷物を、まとめようとしていた。


 だが——何を持っていけばいいのか、分からなかった。


 船の中では、食べ物は必要ない。


 水も、必要ない。


 悠久の時を生きるということは——そういうことだと、説明を受けていた。


 では——何を持っていくのか。


 リナは、部屋を見渡した。


 長く住んだ部屋だ。


 どのくらい長いのか——もう、正確には思い出せない。


 記憶が薄れているから。


 棚の上に、小さな器があった。


 誰かにもらったものだ。


 誰に、もらったのか——思い出せない。


 だが——きれいだと思って、ずっと置いていた。


 リナは、それを手に取った。


 軽い。小さい。持っていける。


 だが——


 「……意味があるのか」


 小さく、呟いた。


 悠久の時の中で、この器は——何の意味を持つのか。


 答えは、出なかった。


 リナは、器を——そっと、棚に戻した。


 持っていかない。


 持っていけない、ではなく——持っていかない、と決めた。


 ここに、置いていく。


 この部屋に。この街に。


 世界が復活したとき——また、ここに戻ってくる。


 そのときに、また手に取ればいい。


 そう思った。


 だが——本当に戻ってこられるのか。


 その答えも、出なかった。


 ガルトは、設計図を燃やした。


 船の設計図ではない。


 それ以外の——自分がこれまで作ってきたものの図面を。


 何十年もかけて、積み上げてきた仕事の記録を。


 火が、静かに燃えた。


 紙が、黒くなっていく。


 ガルトは、それを見ていた。


 悲しくはなかった。


 不思議と——悲しくなかった。


 ただ、見ていた。


 やがて——灰になった。


 ガルトは、その灰を——しばらく見ていた。


 「……軽くなった」


 小さく、呟いた。


 そうだった。


 何かが、軽くなった気がした。


 持っていけないものを——手放したから。


 それだけのことだった。


 それだけのことなのに——なぜか、清々しかった。


 王は、玉座の間に立っていた。


 ひとりで。


 この部屋に、何万回来たか分からない。


 だが——最後に来るのは、今夜だ。


 王は、玉座を見た。


 白い玉座。長い時間、座り続けた場所。


 明日からは——もう、ここには戻らない。


 船の中にも、玉座はある。


 だが——それは、この玉座ではない。


 この玉座は、ここに残る。


 この部屋に。この街に。


 世界とともに——崩れていく。


 王は、玉座に——最後に、座った。


 しばらく、そのままでいた。


 何も考えなかった。


 ただ——座っていた。


 やがて、立ち上がった。


 振り返らずに、部屋を出た。


 夜が深くなった頃——


 セラは、街を歩いていた。


 誰もいない時間に。ひとりで。


 街の隅々を——ゆっくりと、歩いた。


 花壇の跡。干上がった川の跡。人々の家。広場。


 どこもかしこも——少しずつ、薄くなっていた。


 色が、薄い。音が、少ない。空気が、軽い。


 世界が——消えていく途中だった。


 セラは、広場の端に立った。


 いつも座っていた、石造りの段差のそばに。


 しゃがんで——その段差に、手を当てた。


 冷たい。固い。まだ、ある。


 セラは、その感触を——しばらく、感じていた。


 「……また、来る」


 小さく、呟いた。


 誰に言うでもなく。自分に言い聞かせるように。


 あるいは——この街に、言い聞かせるように。


 また、来る。


 世界が復活したとき。人々が戻ってきたとき。


 自分も——戻ってくる。


 そのつもりだった。


 少なくとも——そのつもりだった。


 夜明け前。


 人々が、集まり始めた。


 船の前に。


 誰も急いでいない。誰も騒いでいない。


 ただ——静かに、集まっていた。


 手ぶらの者が多かった。


 何も持っていかないと決めた者たちが。


 あるいは——何を持っていけばいいか分からなくて、結局何も持たなかった者たちが。


 リナは、子どもの手を握っていた。


 子どもは、眠そうな目をしていた。


 「どこへ行くの」


 子どもが聞く。


 「遠いところへ」


 リナは答えた。


 「帰ってこられる?」


 リナは、少し間を置いた。


 「……帰ってくるよ」


 そう、答えた。


 帰ってくる。きっと、帰ってくる。


 それを信じて——乗り込む。


 船の入口に、セラが立っていた。


 最後に乗り込む者として。


 人々が、次々と中へ入っていく。


 セラは、その一人ひとりを——見ていた。


 顔を。表情を。足取りを。


 怖い顔をしている者もいる。泣いている者もいる。


 だが——歩みを止める者は、いない。


 全員が、前を向いて——入っていく。


 セラは、それを——ただ、見ていた。


 最後の一人が、入った。


 セラは、振り返った。


 街を、見た。


 薄くなった街を。消えていく途中の街を。


 「……待っていてくれ」


 小さく、呟いた。


 そして——


 船の中へ、入った。


 扉が——音もなく、閉じた。


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